読書は詩書きの栄養SO?
木葉 揺

 久しぶりに読書に対するエッセイを書きます。
むー、調子悪いからサボリがちですが、ちょっと前にですねえ、「立原道造」さんの詩集を読んだんですよ。
 最初「キャー好きー!」ってミーハーになってました。ホント世の中で言われてるようにリズムが心地よく、自然を使ったイメージの世界が「美しい、美しい!」と感激。
それで名前のわりに自然を使って描くのが苦手な私にとって、とても勉強になります。
「川」が出てくると頭で「川」を想像してみる。「こんな川だろうか・・・」そうすると、「ああ、私は欠けてる部分を補っているのだワ」なんて思いながら、センスを分けてもらってる気分になるのです。
 でもね・・・半分くらい過ぎて疲れてしまいました。「いや、しかし読みきってやる!」と思ったものの、飽きてきたのか、なんかパターンが同じに見えてくる。。。でも、我慢!もう義務で読んでるようで「立原はん、立原はん、もうええわ〜」とか思いながら、後半は「見た!この行見たな。さ、次の行」というように、いちいち思い浮かべようとする作業をやめて急いで読みました。読み終わった頃、ヘトヘト・・・その何日か後に読んだ、薄めの「中野重治」さんの詩集が、みょお〜に読み易く、意外な発見でした。
 読む前は少ない知識の判断で「あ、立原はん、絶対好き・・・」なんて思ってて、読み始め予想以上に熱狂したのに疲れてしまい、離れて構えて「重治どの、よろしくお願い申す!」と読み始めた方が、最後には「せやなぁ〜(関西弁で『そうだね』の意)」という気分になれました。
 これは何でしょう?
おそらく前にもお話したと思うのですが、私右脳が弱くて(笑)。そう、イメージする力、ボ〜とつかむ力が弱いんです。読書慣れしてないせいか「文字 → 意味 → そして実際の映像!」という順序で時間かかるんです。これが右脳が鍛えられてる人は「文字 → 映像」なのかな?到達するのが早そう。たぶんパッと景色が浮かぶんでしょうね。「書かれている単語の意味は?」と考えてる実感がないかも。私なんて浮かんでも「いや、違う。もっとこう」と自分の中でいちいち映像修正してたら、そら疲れるわ!だから「客観的事実!」っぽい「中野重治」さんは読みやすかったのかもしれない。
 そう思うと「立原はんは、ないものねだりの遠い憧れどす」でもだからといって、「重治どの、同志にはなれませぬ。」って感じです。(同じレベルで考えるなっつーの。許して、ザ・空想遊び)
 で、それでもですね、私思うのは、やっぱり勉強になったのも、今後もっと「私が」向き合うべきは「立原道造」さんだと思うのです。というのは、前半の「単語にこだわって詳細を思い浮かべる」のも、後半の「文字の連続を早く見る」というのも良い訓練になってると思うからです。
前半:最初は創造するのに時間がかかる → でも少しずつ早くなる。
後半:最初は文字見ても何も浮かばない → でも少しずつ何かぼや〜と感じる。
そう、これらが融合すると!
「パッと見て細かい部分まで思い浮かべることができるようになる!!」
ホンマかいな。
 いや、でもそれがすごい遠い道のりでも、確かに何が成長した気がする。(気がする。)ヘトヘトになった分、何か得たような、そしてそれが逃げていかないような気がします。それは間違いなく書くときに役立つ。はずですよ(弱気)。ただ、「ホラ、今、あの時のが役に立ってる〜」って実感になかなか出会わないけれど、もしかしてぇ〜、誰かが見てるかもしれませんヨ!

そんなこんなで、ヘトヘトになった後はお休み期間を設けて、ぽよよ〜んと過ごしてます。焦らなくていいのさ。
猛スピードで置いてったら、オバチャン怒るで〜。

では、また、読書のことで何か書きたくなる日まで〜。またね〜。


散文(批評随筆小説等) 読書は詩書きの栄養SO? Copyright 木葉 揺 2005-06-23 01:15:16
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