以下はnoteにて投稿した記事の転載。
noteでは、たぶんけっこう古典的な詩の書き方や考え方を、「自分の考えの整理」「詩を書いたことのない人のために詩のハードルを下げる」という目的のもとに書いてきました。
余計なこと言いすぎてハードルもクソもない記事群になってしまったが、結局はこういうことである。
体系的に文学を学んでこなかった人が考えた話ということで、生暖かい目で見守っていただけると幸いです。
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僕が2、3ヶ月かけて言ってきたことをまとめると
「詩はあなたの心をあなたのために書くものだから、好きに書けば良い」
仮に詩作の塾なんてものがあったとして、こんな話を聞かされるだけで月謝を取られようものなら僕は消費者庁に通報します。
そろそろ詩を書くために、「なんでもいい」や「グッとくる」というのがどういうことか、文脈という文学っぽい視点から一歩踏み込んで考えてみたい。
目次
1.訳の分からん言葉を読む人の立場になってみる。
2.文脈ってなんなの
3.文章の流れの中にある意味内容って結局どういうこと?
3-1.孤独な言葉は1本のきゅうり
3-2.「あ」に意味を持たせるにはどうするか
4.文脈を構成する2つの要素
5.「文と文の論理的関係」
5-1.マッキンゼーはそんなこと言わない!
5-2.逆接か、順接か、それが問題だ
5-3.この文で作者の言いたいことを述べよ
6.「語と語の意味的関連」
6-1.文脈という重力
6-2.文脈の可能性
6-3.途絶えた言葉の先にある文脈を思う
7.僕がだらだら言ってきたことはだいたい文脈のこと
8.詩の意味は語の意味にかかっている
8-1.余韻を言語化してみる
8-2.意味の限界
8-3.詩の道を行く
8-5.詩の役割
おわりに。ふわっと読ませたいからふわっと書く
1.訳の分からん言葉を読む人の立場になってみる。
今まで書く側の立場で話をしてきました。
ここでいちど読む側の立場になっていただくために、僕が書いた詩を堪能していただきましょう。
あ
どうでしょう。
「ん?」とか「は?」とか、「舐めてんのか」とか、思いませんでした?
これを詩だと言い張ってもいいでしょう。
しかし読む人にだって「こんなの詩じゃない」という権利はある。
前回、詩には飛躍が必要と言いました。
だからと言って文法をかなぐり捨てる勢いで書けば書くほど、このような齟齬が生じる可能性は高まるばかり。
(『状況次第』では「あ」も立派な詩になるかもしれないがそれは別の話)
飛躍しすぎて話が通じないのでは切ない。その齟齬を最低限埋め合わせるために必要なのが「文脈」です。
2.文脈ってなんなの
文脈とはなにか、先にはっきりさせときましょう。
こういうときは素直に辞書に頼ります。
ぶん‐みゃく【文脈】
1 文章の流れの中にある意味内容のつながりぐあい。
多くは、文と文の論理的関係、語と語の意味的関連の中にある。
文章の筋道。文の脈絡。コンテクスト。「文脈で語の意味も変わる」「文脈をたどる」
コトバンク内のデジタル大辞泉より
らしいです。今回は
文章の流れの中にある意味内容のつながりとはなにか(文脈の基本的な考え)
・文と文の論理的関係
・語と語の意味的関連
この3つを順に検討して、詩の話にまでつなげていきたい。
そのための要点をところどころに「ポイント」として差し込んでます。
3.文章の流れの中にある意味内容って結局どういうこと?
3-1.孤独な言葉は1本のきゅうり
「あ」は一つの語です。文章の繋がりを見るという文脈からすると、これだけでは箸にも棒にもかからない。皿に盛られた一本のきゅうりと同じです。まだ素材の段階ということ。
「これが僕の料理です。召し上がれ」とシェフに言われても返事に困ります。
3-2.「あ」に意味を持たせるにはどうするか
素材の良さを活かしすぎるのも問題だということで、風味をつけてやりたい。
散歩中に雨が降ってきて、あ
こうすると「あ」という語を「感嘆詞」として味わえますね。語(文)と「あ」という語が結びついて、全体として意味の通る一つの文章になる。
これが文脈が通るということかと。文脈が通ると、文章として違和感なく読める。
変にこだわって「そ」という詩を書かなくて良かったです。
もう一つ例を出しましょう。
現代物理の常識を覆す定理に気がついて、あ
同じ「あ=感嘆詞」でも、なんか違いますね。
・どうしようもない感じの「あ」(テンション的にはやや右肩下がり)
・ふとした発見、閃きの「あ」(テンション的にはやや右肩上がり)
そんな違いが感じられます。
このように見ると、語から受け取る雰囲気というのは、別の語の雰囲気から導かれてくるようです。
【ポイント:同じ言葉でも、前後の語や文が変わればその言葉の解釈は変わる。】
4.文脈を構成する2つの要素
ここから「文と文の論理的関係」と「語と語の意味的関連」を見ていきたいのですが、これらはおそらく並列関係ではないということを先に言っておきます。
引用=語の意味的関連が成立
↓
文が成立
↓
文同士の論理が成立
こういう順序。
論理は言葉同士の意味が十分に通じ合うことではじめて成立します。つまり論理関係は文脈の土台ではなく、意味の理解を整える手段。
語の意味がそれぞれ関わり合っていさえすれば、論理がなくともなにがしかの像は結ぶ。ということでもあります。
5.「文と文の論理的関係」
5-1.マッキンゼーはそんなこと言わない!
論理について専門的には色々細かい定義があるのでしょうが、僕には分かりません。
ここで扱っている論理とは、言葉どうしの関係を明示する仕組みです。その働きを担うのは助詞や接続詞でしょうか。
雨が降ってきた。だから、傘をさした。
この例文の接続詞を変えてみるとどうなるでしょう。
雨が降ってきた。それに、傘をさした。
なんか変。
これがまかり通るなら「空・雨・傘」なんてフレームワークは世に出てきません。
これが「意味内容の繋がり具合(文脈)における、文と文との論理的関係」ということではないでしょうか。
(この話でなにかピンとくる方はきっと詩が書ける人です)
5-2.逆接か、順接か、それが問題だ
ところが。
雨が降ってきた。傘を差した。
雨が降ってきた。傘を差さなかった。
雨が降らなかった。傘をささなかった
雨が降らなかった。傘を差した。
接続詞がなくても通じるのは通じます。
人は「語と語の意味的関連」を拾って、それらが違和感なく結ばれるよう、文としての自然な繋がりを再構成できるのです。
【ポイント=意味さえ通れば論理は最低限でいい。】
5-3.この文で作者の言いたいことを述べよ
言い換えれば、意味の通じない言葉ばかりが並んでいると論理どころではなくなるということ。
きゅうりの塩もみを作ろうとして、大根と味噌を揉んだところでなんにもなりません。
語の意味的関係が破綻している状態を見てみましょう。以前の記事のコピペです。
「濃度」がちくわだ、彼女に「的」へあった。
拙著「寓意としてのキャンドルを笑う帽子が見た夢の続きに伸びる街角」より抜粋(そんなものはない)
このザマです。「しかし」だろうが「そして」だろうが、助詞を変えようが、全体として何を言わんとしているか推測する手がかりがない。
こんなところから、文脈が通るためには論理よりもまず「語の意味的関連」が優先されるといえるのではないか。
5-4.蛇足のような解説
雨と傘の場合はそれぞれ
・雨は濡らすもの
・傘は濡れるのを防ぐためのもの
また、
・「雨」は上から落ちてくる。「降る」は上から(数多くのものがいちどきに)落ちてくるものに使う動詞
・「傘」は頭上にかざすもの。「さす」はあるものがあるものを覆う動詞
と、語と語との意味関係にも、それを結ぶ助詞や接続詞にも破綻がないので、見晴らしがよいのです。
6.「語と語の意味的関連」
6-1.文脈という重力
言葉同士の意味が密接なほど、文脈の通り具合は強力になります。どのくらい強力かというと、よしんば文章という体裁を保っていなくても、全体としてのつながりはうっすら感じ取れるくらいには強い。
単一の語で意味を持つものといえば名詞ですので、名詞を置いてみます。
指 スマホ
どうでしょう。現代人は似た光景や文章が頭によぎると思います。
言葉の選び方が卑怯? いえ、そう思うほど意味の繋がりが強いだけです。塩ときゅうりさえあれば立派な料理です。はい、僕は料理ができません。
6-2.文脈の可能性
「雨 傘 きみ」
こんなのも
きみがいる
雨が降る
だから
傘をさす
雨が降る
傘をさす
そして
きみがいる
など、ひとつの正しい筋道はないにしても、示された語から全体としての意味を理解しようと頭が勝手に働いて、いくらでも文脈を通すのです。
【ポイント:文脈を通す作業は「書き手」だけのものではなく「読み手」にも与えられている。】
6-3.途絶えた言葉の先にある文脈を思う
そして大事なのは、言葉同士の意味の繋がりが薄いほど、読み手は能動的に全体としての意味をつくろうとすることです。
以前出した例えの二番煎じですが、短編小説でよくあるバッサリとした終わり方はこの作用を働かせる極端な例です。
意味内容が薄いどころか、続いてもよいはずの文が丸ごとないから、「えぇ……」と戸惑いつつも、「そこから先」や「そこから先がないことそのもの」や「今までの話はなんだったのか」などについて、思いを馳せてしまう。
7.僕がだらだら言ってきたことはだいたい文脈のこと
前回記事の
「手を見る」という行動の理由を納得させるのではない。その奥にある、心の揺らぎを想像させたいのです。
「ぢっと手を見る」瞬間の作り方 ~石川啄木の正直さに憧れて~ より
や、さらに前の
風呂キャンセル界隈
それな
創作の2つの「カタチ」をダニエル・カーネマンとブッダから教えてもらう より
のくだりや焼け野原の例えなどは畢竟、文脈と、文脈を通そうとする人の働きを詩に援用した場合の役割や具体例を示したものです。
伏線回収までが長いよ。
でも急に今回のような話をしても「ハードルを下げる話」にはならないじゃない。むずかしいよ。
だから文学は嫌なんだ。
8.詩の意味は語の意味にかかっている
8-1.余韻を言語化してみる
そろそろ文脈を詩の話に繋げましょう。
6で言ったように、示された語から自動的に意味を補おうとする働きを人は持っている。
その働きにかかる内的な時間感覚を、文学的に「余韻」というのではないでしょうか。
であるならば、文学的余韻を求めたいときに必要な文脈とは、「文と文の論理的な繋がり」よりも「語と語との結びつき」のほうになる。
8-2.意味の限界
しかし問題は、今まで見てきたことはそれぞれの語の意味の結びつきが強い場合の話だということです。
意味がすでに広く世界に共有されている言葉同士の結びつきから、読み手が想像できるのは「既成の世界のなかの、想定内の出来事」に落ち着きがち。
読む人なりの新しい気分、感覚、イメージの発見に至る可能性は低い。
『風呂キャンセル界隈 それな』の二文を読んだ人が文脈を想起できたとして、そこから「わかる」という共感の気分が「新しく」生成されるかもしらん。
しかしそのわかりみの深さとは、あまねく世に共通化され、すでに言語化までされた感覚に自分を重ねただけです。
得体のしれないものと衝突したわけではなく、「余韻」といえるほどの深さはそこにあるだろうか。
『意味内容が薄いほど、読み手は能動的に意味を探す』ということを鑑みれば、こういう問いに言い直すこともできる。
【ポイント:既成の意味の繋がりは現実世界を超えにくい。】
8-3.詩の道を行く
詩と(古典的な)散文との役割をあえて分けるとするなら、こういうことにもなるでしょう。
散文:論理が運ぶ意味を辿る
詩:語の関係が生む意味をさまよう
ポストモダン? 知らん。
散文において論理は付属品扱いではない。
しかし詩というジャンルが独立して存在しているのなら、小説のような散文らしからぬ道を行くのが詩の道理のはず。
というわけで、今まで示してきた文脈のポイントを整理して、そこから詩の道理とやらを見出してみたい。
・文脈を通す作業は「読み手の側」にもある
・語は同じでも読む側の解釈は変わる
・雰囲気や気分さえ通れば論理は不要なこともある
・雰囲気や気分は、既成のものでないほうが「余韻」として残るはず
8-5.詩の役割
これを強引にまとめると、詩の道理のひとつは
「既にある言葉の意味をずらして、この世界に未だ共有されていない新しい気分を描き、論理の及ばぬところで読み手に想像-イメージ-させること」
こういうことにもなるだろう。
しかしこんな小難しいことを言えたからって、詩が突然上手くなるわけでもないのだ。
ドヤってもしょうがないので、僕はこれを初っ端の記事で以下のように翻訳した。
「詩とは説明できない気持ちや世界のことを、説明しないまま表すもの。」
言ってることはだいたい同じだろう。
月並みな言い方だろうが、別にこれでいいと思う。
いちおう考えがあったうえで、ここに落ち着いたのです。
おわりに。ふわっと読ませたいからふわっと書く
僕たちに必要なのは文脈を絶妙な塩梅で絶つ勇気です。
帰納や演繹などではなく、不安定な文脈から、読む人に新しい気分を浮かびあがらせたいのです。そして
「わかりそうでわからない、でもなんか言ってる気がする。きっとこういうことかな。なんだろう、よく分からないけど、いい言葉な気はする」
こういうふわっとした感想を言わしめたい。
そしてできればメタな構成とかなんとかに頼ることなく、素朴なポエマーっぽい言語感覚で。
(これは最近の個人的意向。かようにおそらく古典的な詩論じみた考えを整理しているのはこのため)
詩の道理や作りがどうであれ、ふわっとした気持ちは大切にしたい。
次回はこういう気持ちと、最後に出た問題点を踏まえ、実際どう書いていけばよいのか、サザエさんのオーオプニングテーマを参考に考えていきたいです。
長くなりました。
ではまた。