Air
岡村明子

いい天気ですね
がはじめの言葉だった
G線上のアリアが流れていて
あんまりできすぎたシチュエーションに
笑いをこらえるために
コーヒーを一口すすってから
やっと私は
ええ
と答えたのだった

その日
私は大通りに面した喫茶店で
本なんか読んでいたのだ
本当のことを言うと
こんなに晴れた冬の休日に
オープンカフェで読書に耽る女
を気取っていただけなのだが

声をかけた男は
向かいに座りコーヒーを注文した
本がお好きなんですね
という問いかけに
ええまあ
と曖昧に返事をしながら
不意に
子供の手から離れて飛んでいく風船が
目の端に映ったような気がして
上げた視線の先に
銀杏に彩られた金色の空ばかりがまぶしい

曲はいつのまにか
チャイコフスキーのアンダンテ・カンタービレに変わっていて
失いかけた言葉を取りつぐように
時間を共有することを助けている

男は黙って通りを歩く人々を眺めている
何気なく見ていた
その目
その眉その鼻その頬その顎その耳
その髪に
触れたい
と思った瞬間から
はじまってしまった
3年前のあの日

歩き出した私たちに
BGMはもういらなかったのだが
舞台装置を取り払って埋め尽くされた言葉の中には
傷つけ合うものも少なくなかった
お互いの存在だけが信じるものであったあの頃
二人の発する熱が外気に触れるたび
むしろ私たちは錆びていった

今日また冬が来て
往来を人々が歩いている
いい天気ですね
いい天気ですね
ひとり口をついて出た言葉に
どうしてか
立ちつくして
あの日の風船はまだ宇宙の軌道を回っているだろうか
はじまってしまったあの日に
やりなおしましょう
と書いた紙をひもにつけて放っていたなら
今日あたり空からしぼんだ風船が落ちてきたかもしれないのに

おしまいの言葉はどうしてもみつからない


自由詩 Air Copyright 岡村明子 2003-12-03 16:24:33
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