「詩が逃げていったあとに残るもの――詩誌の役割について」(atsuchan69)へのギモン
室町 礼

ギモンの対象である論考の核心は「詩誌は、もはや〈新しい
詩〉を見つける場所としての役割を終えた」と結論して詩誌
に引導を渡している点にあります。
投稿者の論旨を以下に箇条書きしてみましょう。

1.速度の敗北
新作の発表や反応の速さではネットに勝てない。詩誌が
「新しさ」を競うのは自滅行為である。

2.役割の転換(保存・アーカイブ)
今後の詩誌は、ネットで流れて消えていく詩を「拾い上げ、
編み直し、批評を加える」という後追いの記録装置(地図)
になるべきだ。

3.脱・格付け
詩誌は「選考して点数をつける(権威ぶる)」のをやめ、
読者が読み解くための「解説・材料」を提供する裏方に徹せ
することだ。

4.回収への警戒
詩壇がネット詩を取り込もうとするのは、単なる「資源の
搾取」であり、そんなことをすれば詩はさらに遠くへ逃げて
いくだけだ。

このような主張を語っておられます。しかし、わたしの見る所、
日本の詩誌(『現代詩手帖』『ユリイカ』等)は権威ある歴史
をもち、執筆者も運営もそれなりに詩の専門家ばかりです。
執筆者にはファンも沢山います。一方、ネット投稿板に投稿され
る詩のレベルは惨憺たるもので、ほぼ、詩というよりは精神的な
悩みを稚拙な作文で訴えるものが7割以上、あとは詩誌に載る有
名詩人の詩の下手な物真似、残りは自己意識が肥大した誇大妄想
のような意味不明の抽象詩です。つまり、いくらネット詩が速い
スピードで「新しい」詩が投稿されるといってもそれは「新し」
くもなんでもなく、あまり考えもせず、エネルギーも浪費せず垂
れ流しのように毎日、上記のような悲惨な詩ばかりが投稿されて
いるが現状のネット投稿板です。
"その他一切ごちゃまぜ"の、無測定 無評価 無条件な投廃棄が
許されている、言葉の集積所です。
これを「新しい詩」が「スピーディに」生成
されている現場といえるでしょうか? 詩というものは早く書け
ればいいというようなものじゃないのです。お米屋さんや水道局
でもあるまいに、詩作品というものを一定量を毎日スピーディに
供給するような質のものだとでも思っているのでしょうか? 詩
とは自己の内的な心情、思想を美的(これにはレトリックの構造
の面白さやゲーム性も含まれます)に、かつ本質的(自己表出的)
に自己を表現する心的活動です。
関を設けずにクソミソまとめて毎日垂れ流すことが詩価値がある
ことにつながらないのです。

1.この執筆者は、ネット上での投稿の多さを「言語環境の変化」
や「速度」という言葉で正当化していますが、これは表現の「質」
を「量と速度」にすり替えた論理の飛躍です。

2.垂れ流しを「運動」と呼ぶ強弁
批評の中で「詩的言語の運動」という言葉を使っていますが、実態
が稚拙な作文の乱造であるならば、それは運動ではなく単なる「ノ
イズ」です。

3.推敲の欠如
詩誌(『現代詩手帖』等)が持つ「遅さ」は、本来、言葉を研ぎ澄
まし、本質へと迫るための必要な時間です。ネット詩の「速さ」を
肯定する論理は、その真摯な創作プロセスへの敗北宣言とも取れます。

4. 専門性へのコンプレックス
「評価や順位づけをしない媒体になれ」という主張は、プロの目
(選者や批評家)による厳密な査読に対する、アマチュア側の「開き
直り」に過ぎないと言わざるを得ません。

5. 自分の作品が惨憺たるレベルであることを認める代わりに、
「今の詩誌の評価制度(格付け)自体が時代遅れなのだ」と制度の
せいにすることで、自尊心を保とうとする意図が見え隠れします。

6. 詩誌を「解説媒体」に格下げせよという提案は、長年培われて
きた詩の専門性や美学的基準に対する敬意を欠いており、専門知を
持たない者が、専門知を持つ者を引きずり下ろそうとするルサンチ
マン(強者への憎悪)が色濃く出ています。

7.「詩は囲い込めない」という言葉の虚しさ
「詩は外部へ移動していく」という一節は一見詩的ですが、現実に照
らせば、それは質の高い詩が生まれているのではなく、「詩の定義が
崩壊し、無価値な言葉が詩を自称しているだけ」という惨状を指して
いるに過ぎません。

8. 「詩壇がネット詩を回収しようとしている」という警戒心は、
(まさかネット詩に回収されるようなものが溢れているとも思えません
が)実は「自分の稚拙な叫びが、プロの基準で裁かれること(そして
一蹴されること)」への恐怖の裏返しではないでしょうか。

 結論
こうやってみてくると、論考投稿者とそれにイイネした方々とわたし
の差は、ネット投稿詩の価値をどう評価しているかに尽きるでしょう。
ネット投稿詩に価値があると思われる方は投稿者の論考を一定評価し、
わたしのように「新しく」もなんともない、まるで毎日の排便のよう
な垂れ流しの習慣から排泄される汚物のようなものとみる人間は否定
的であると申せます。しかし、
真に真面目に詩と向き合う者であれば、速度や制度を論じる前に、ま
ずは自らの言葉が「内的な思想を美的に表現できているか」を問うは
ずです。それが抜け落ちているこの批評は、やはり「選ばれざる者の
自己弁護」の域を出ないものと言えるでしょう。
とはいえわたしは詩誌ごとき読んだことがありません。頭からバカに
しています。なぜバカにしているかはこの投稿者とはまったく別角度
から散々書いております。しかしネット投稿詩はバカにする以前のも
のです。批評や評価の対象には今のところ残念ですが、なりません。
はい。
もちろん、ママゴト遊戯でトップ10などお遊びやってもいいし、かつ
ての「文学極道」のような愚劣な評価祭りや賞の授与やってもいいと思
います。それはわたしからすれば滑稽の極みですが、それを冷静かつ客
観的に愉しむぶんにはいいのですが、例えば文学極道で賞をもらったか
ら本気になっている人をみると悲惨かつ哀れを催すのです。それと同じ
で、まさか、ネット投稿詩を(今のレベルでは)なにかまともな現代詩
と錯覚している人をみるとあ然呆然とするしかないのです。


散文(批評随筆小説等) 「詩が逃げていったあとに残るもの――詩誌の役割について」(atsuchan69)へのギモン Copyright 室町 礼 2025-12-30 06:38:18
notebook Home