詩が逃げていったあとに残るもの――詩誌の役割について
atsuchan69
◆詩誌の役割はどこへ向かうのか
詩誌は、もはや新作を発表するための場所ではない。
少なくとも、その役割に固執し続けるかぎり、現在の言語環境において詩誌は周縁化していく。
作品の生成と反応の速度は、すでにネット空間が独占している。
この現実を無視したまま、詩誌だけが速度の競争に参加しようとすることは、制度としての自滅に近い。
だからこそ、詩誌の未来は別の方向へ向かう必要がある。
それは、新作を発表する場であることから、言語実践を編集し、保存し、再読可能なかたちで配置し直す場への移行である。
生成と即時的な反応がネットに委ねられた現在、詩誌は時間差の読解や再解釈、再記述を前提とした媒体として、異なる時間の流れを引き受けるべきだろう。
◆記録と再配置としての詩誌
具体的な方向性は、すでにいくつか見えている。
ネット上で発表された詩や既発表作品を再掲載し、それに対する批評を同時に配置すること。
また、数年単位で同じテーマや言語的傾向を再検討する特集を組むこと。
個々の完成作品ではなく、言語の使われ方や反復される形式そのものを編集の主題に据えること。
こうした実践を通じて、詩誌は完成した作品を並べる場から、詩的言語がどのように運動し、変化してきたのかを記録する場へと性格を変えていく。
そこで問われるのは新しさではない。
どのように読まれてきたのか、どの文脈で接続され、どの地点で変質してきたのかである。
◆影響力を回復しないという判断
このとき詩誌が目指すべきなのは、かつての影響力を取り戻すことではない。
影響力の低下を問題化する議論は多いが、それは結果であって原因ではない。
重要なのは、詩がすでに別の場所へ移動しているという事実を前提に、なお何ができるのかを考えることだ。
速さではネットに勝てない。
しかし、時間をかけて読み、読み返し、複数のテキストを関係づけることにおいて、詩誌は依然として機能しうる。
詩誌は、遅く持続的な批評装置として、自らの役割を引き受けるべき段階に来ている。
◆序列を作らない解説媒体として
詩壇や詩誌が向かうべき方向を整理すると、評価や順位づけを目的としない解説媒体という像が浮かび上がる。
点数を付けない。
優劣を確定しない。
その代わり、情報と読み筋を徹底的に充実させる。
どのように読めるのか。
どこが分岐点になっているのか。
どの言語的実践と接続しているのか。
そうした視点を提示することで、読者自身が読みを組み立てるための足場を用意する。
判断を代行するのではなく、判断に必要な材料を最大限に差し出すことが、これからの詩誌の編集に求められる。
◆ネット詩をめぐる制度的支配
一方で、詩壇が自らの権威を維持するために、ネット詩投稿サイトを制度的に回収しようとする動きは、今後さらに顕在化する可能性がある。
それはサイトを直接管理することではない。
評価基準や承認の回路を詩壇側が握り、ネット詩を選別し、正規の流通へと回収することで成立する支配である。
この構図では、ネット詩は言語資源の供給源となり、詩壇は精製と格付けを行う装置となる。
◆詩は囲い込めない
しかし、ネット詩の強みは速度と制度からの自由さにある。
固定化された価値基準を押し付ければ、書き手は別の場へ移動するだけだ。
詩を取り込もうとすればするほど、詩はさらに外部へ移動していく。
この逆説は、現在の言語環境においてすでに繰り返し確認されている。
だからこそ詩誌は、囲い込むための装置であってはならない。
移動し続ける詩を後からでも辿れるようにするための地図であり、記録であり、思考のための場であるべきだ。
詩誌が生き延びるとすれば、それは速度の競争に勝つからではない。
遅れて読むこと、繰り返し読むこと、配置し直すことを引き受けるからである。
(了)