詩が逃げていったあとに残るもの――詩誌の役割について/atsuchan69
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 月乃 猫 
-  
- りつ 
詩誌もネットの隆盛を無視できなくなり、
旧現代詩手帖が紙面で公募している氷見文学大賞などは、ネットから応募できます。
- 田中宏輔2 
- 洗貝新 

雑誌全体の売り上げが減ってきているいうなかでも文学フリマは盛況だという。
この反作用はどうした影響からだろう。

- 鏡ミラー文志 
雑誌に掲載されるということは、その世界で名を上げた人からお墨付きを得られるということで、伝統的なその道の正道を行く作品を作る力のある作品作家であるということを認められる名誉が得られることだと思います。

一方でSNS上で人気を出すやり方は、論破的なパフォーマンスであったり、テロ行為に近いやり方で名を挙げようとする方もおられる。

言葉に責任を持つという点においても、記録として残される紙の媒体の価値は高いかと。
名前を出し、その名前に責任を持つ方の審査を通過して公に出された言葉と、そうでない言葉では重みや価値も違うことと思います。

権威というものに、責任を引き受けるものであるという側面を重視し、その勇気をありがたいと思うか、威圧性ばかりを過大に取り立てて我儘な子供のように反発するかで、審査を通過し名誉を貰うことの重要性に対する考え方、引いてはネット詩と紙媒体の比較見識も違ってくると思います。

私は自分の言葉が誰の審査も通過せずに公の場に出るネット詩投稿の在り方に個人が全ての責任を引き受けなければならないことの苦しさを感じることが多く、なのに何故利用しているかというと、表現することが好きで、その作品数が公募だけでは収まらないという面が多いです。実際は相当数駄作があるという自覚もあるため、ネット詩であったとしても審査員がついているものが一番だと思ってます。

一人でパソコンに向き合いて誰にも相談出来ぬまま、自分の作品をこれで良しと投稿し続ける孤独に耐えるのはとても強靭な精神かと思いきや、どこまでも無責任に乱暴言葉をぶつけ、責任さえ放棄してしまう人が実に、多い。

責任に関して言えば、プロで活躍している人は自分への責任だけで動いていないから、投げやりな態度をとるわけにいかず、その忠義があるかないかだけ考えても、匿名性の高い素人投稿とは全く違うと思う。

遅いメディアであること、繰り返し読まれるメディアであること、どう読むかを体系的な解説も含め、筋を見せ、地図を作って、読み手にヒントを与える力があるメディアであること。この三つでネット詩にはない信用を勝ち取ることが大事なのかと。
- ひだかたけし 
優劣判定に帰着する理性的ロゴスから逃れ続ける
ネット詩表現、まるで資本主義ロゴス、
人存在すら商品化し包摂し続ける現実商品化を
拒否し続けるネット詩表現のリアル、
お見事に対象化した作品だなぁ…と。

この現フォをずっとベースキャンプにして居る僕の立ち位置から、
端的断片的ながら感じ想いました。




---2025/12/28 23:01追記---

但し、上に述べたネット詩表現への肯定的側面、
詩表現に自己責任を負うことは
自分の生き様に自己責任を負うことと等価で在ること、
よくよく認識した上でのネット詩表現に対してです。

このことは現フォの何人かの人に僕自身コメントして来ましたし、
それで潔く身を引いた方も確かに居て、やはり、サンプル?として
見習って欲しいものだと僕には想われます。
- 花野誉 
- wc 
- nemaru 
- おまる 
- 唐草フウ 
わたしの中では詩というものは
各々の時間や空間にちょん、とあるもの、という認識です。
紙媒体やネットはその時時の道標だったり地図、ガイドラインみたいな。
自由な変化にもたのしんでいきたいです。
 
作者より:
月乃 猫さん、ポイントをありがとうございます。 
海さん、ポイントをありがとうございます。  
りつさん、ポイントをありがとうございます。
コメントもありがとうございます。
田中宏輔2さん、ポイントをありがとうございます。  
洗貝新さん、ポイントをありがとうございます。
コメントもありがとうございます。

鏡ミラー文志さん、ポイントをありがとうございます。
ご指摘のとおり、紙媒体や雑誌に掲載されることが、実名と責任を引き受けた審査を通過する行為であり、そのこと自体が言葉に重みを与えてきた、という理解には私も大きく同意します。遅いメディアであり、繰り返し読まれ、読解の筋や地図を提示できるという点で、紙媒体が担ってきた役割は、現在もなお重要だと思います。

同時に、私が「詩は衰退したのではなく、移動した」と述べたのは、そうした価値を否定するためではありません。むしろ、責任や審査、批評の体系が十分に機能しにくい場所へも詩的言語が流出している現状を、評価ではなく記述として捉えたい、という意図でした。ネット詩の無秩序さや無責任さは、確かに危うさを孕みますが、その一方で、従来の制度では受け止めきれなかった感情や言語感覚が、そこに現れているのも事実だと感じています。

だからこそ、紙媒体や詩壇が果たしうる役割は、ネット詩を単に否定することではなく、責任・審査・読解という価値をもって、それらを「遅く」引き受け直すことにあるのではないかと思います。権威を威圧としてではなく、責任を引き受ける装置として再定義すること——その点で、コメントに示された問題意識は、私の考えとも深く接続していると感じました。 

ひだかたけしさん、ポイントをありがとうございます。
丁寧な読みと率直な所感をありがとうございます。
ご指摘の「優劣判定に回収される理性的ロゴス」から逃れ続けるネット詩表現、そして資本主義的な商品化の論理に対する抵抗としてのリアリティ、まさに私自身が問題として捉えたかった核心だと感じました。ネット詩が評価・格付け・序列化の回路から外れた場所で生き延びていることは、詩が制度の外部へと移動している証左でもあると思います。

同時におっしゃる通り、その自由は無条件ではなく、「詩表現における自己責任」が「生き方そのものへの自己責任」と等価であるという認識を伴ってはじめて、肯定的に成立するものだとも考えています。責任を引き受ける覚悟なき言葉が、単なる投げ捨てや暴力に転じてしまう危険は、私も強く感じています。

現代詩フォーラムをベースキャンプとして位置づけられているというお話は印象的でした。移動し続ける詩にとって、完全な自由空間でも、厳格な制度でもない「一時的に立ち止まり、自己を測り直す場所」が必要であることを、まさに体現されているように思います。潔く身を引くという選択を含め、言葉と生の一致を引き受ける姿勢そのものが、ネット詩表現の成熟にとって重要な実例なのだと感じました。

花野誉さん、ポイントをありがとうございます。  
wcさん、ポイントをありがとうございます。  
nemaruさん、ポイントをありがとうございます。
おまるさん、ポイントをありがとうございます。

唐草フウさん、ポイントをありがとうございます。
 
とても共感する捉え方です。
詩がまず「各々の時間や空間にちょん、と在るもの」であり、紙媒体やネットはそれ自体が詩なのではなく、その時々に詩へ向かうための道標や地図のような役割を担っている、という感覚は、私自身の考えとも重なります。

詩が移動すると言うと、場の優劣や価値の上下として受け取られがちですが、本当はおっしゃるように、詩そのものは変わらず、私たちがそれに触れるためのガイドラインや通路の形が変化しているのだと思います。その変化を恐れるよりも、自由な変化として楽しむ姿勢こそ、いまの詩的実践にとって大切なのかもしれません。

詩が「ちょん、と在る」瞬間を見失わずにいられる限り、紙でもネットでも、その媒体は生きた道標として機能し続ける——そんなふうに感じました。







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