すすき野原で見た狐(下巻)
板谷みきょう

第一章:苺を求めて
春の終わり、与一は「せせらぎの峰」を目指して旅立った。足元の土は湿り、谷を覆う霧が視界を遮る。冷たい風に打たれながらも、彼の胸には、季節を問わぬ白い苺という“祝福”があった。

「必ず……この手で、希望を」

息を切らし、ただ岩を登り続ける。手のひらに刻まれる苔の感触。全身で自然と向き合う彼の心には、一匹の狐との間に育まれた、誰にも言えぬ確かな連帯が灯っていた。

岩陰から、狐は静かにその背中を見送る。化けの術は今、封じられている。ただ、与一の決意の強さが、自身の胸に痛いほど響くだけだった。
第二章:悲劇と献身の香
頂上に近づいた瞬間、乾いた音を立てて岩が崩れた。

与一は谷へと滑り落ちる。その刹那、空気は一瞬静まり返り、白い苺だけが微かに光を放った。彼はその果実を、命と引き換えに掴み、岩陰に倒れた。

狐は、目の前で起きた光景を息を詰めて受け止めた。一瞬、全てを失った絶望に立ち尽くす。しかし、すぐに駆け寄る。与一の手には、白く、小さな苺が握られたままだった。

狐はそっとその果実を口に含む。淡い光を帯びた香りが、無言の努力、孤独、そして魂の輝きを胸の奥深くに染み渡らせた。悲しみの涙はない。ただ――与一がこの世界に残した純粋な愛が、この苺の中に、確かに生き続けることを、狐は深く感じ取った。

山の中に、二人の孤独と献身が、永遠に重なり合ったまま、静かな風だけが吹き抜けた。

第三章:遅れて届いた報い
その頃、山の下の村人たちは、踏み荒らしたはずの畑で立ちすくんでいた。

土の中から、手のひらほどもある、白く大きなジャガイモが、無数に顔を出し始めたのだ。泥だらけの手でそれを掘り出す瞬間――雷に打たれたような痛む理解が胸に走った。

「与一……本当に……」

手のひらに伝わる温もりが、与一の姿を幻視させるような錯覚を覚える。この豊作は、冷笑や憎しみを超えた、与一の純粋な愛と、見えぬ献身が生んだ奇跡だった。彼らは言葉を失い、ただ、手の中の命の塊を見つめた。騙されていた怒りも、嘲笑も――すべて静かに溶けていく。胸に押し寄せるのは、底知れない感動と、遅れて訪れた深い後悔だった。

第四章:継承の決意と静寂
狐は、白い苺を噛みしめたまま、与一の魂の温もりを全身で感じた。

「与一……わしの、みっともない姿……見ておったんじゃろ?……なのにのう……。ありがたいもんよのう……ならば……わしは、その想いを抱えて行こう」

そして――与一に化けることなく、静かに野原の影から立ち上がり、社の方向へ歩き出した。

村人たちは畑を見つめ、言葉少なに立ち尽くす。誰も騒がず、ただ静かな涙が、泥にまみれた頬を伝った。誰も責めず、ただ――心の奥で、与一の孤独な勇気と愛を思い浮かべる。

苺の香りが夜風に漂い、月明かりが山を照らす。狐の瞳には、与一の愛を守り続ける静かな決意が宿り、すすき野原は、その思いごと音もなく抱きしめるように静寂に包まれた。

終章:永遠に響く孤独
野原に残されたのは、苺の甘い香りと、狐の静かな存在、そして、畑に芽吹く新しい生命だけだった。

狐は与一の姿に化け――その日から、「与一」として社を守り、畑を耕し始めた。その姿は、本物の与一と寸分違わない。

村人たちは、遠くの峰で倒れた「真の与一」と、今社で暮らす「愛を抱えた与一」の真実を知ることはない。誰も口を開かず、ただ心の奥で――遅れて訪れた感謝と後悔を噛み締める。

夜風に揺れるすすきの間で、狐の耳がかすかに動く。静かな呼吸が野原に溶けていった。

二つの孤独は重なり合い、一つの永遠に生き続ける愛の物語として、村の奥深くで静かに響き続けた。


原作「すすき野原で見た狐」を修正しました
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散文(批評随筆小説等) すすき野原で見た狐(下巻) Copyright 板谷みきょう 2025-11-28 19:26:26
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