紫陽花は、雨の季節に、静かに生まれました。
ひと粒ひと粒、雨のしずくを、その葉と花びらに受けるたびに、紫陽花は、まるで涙でできた水のお城のように、透きとおって光りました。
ある、ひっそりとした夕暮れのことです。
丘の向こうから、細い風が、ふわりと、やってきました。風は、どこか遠い、甘い匂いを連れていて、紫陽花の心をそっと揺らしました。
風は、紫陽花の大きな葉の間を滑りながら、優しく囁きました。
「あの丘にはね、秋になると、細い花たちが、みんなで楽しそうに踊るんだよ。」
「その中でも、一輪だけ、お日さまの明かりを抱きしめているような、温かい花が咲くのさ。秋桜という名前だよ。」
紫陽花は、その声が、雨粒の奥に、すうっと落ちていくような、切ない気持ちになりました。
「あの花を、一度でいいから見てみたい。」
その想いは、きらきらの光の糸になって、紫陽花の心の、誰も知らない深い場所にきゅっと結びつきました。
けれど、風は去り去り際に、ひとつだけ、冷たくて、哀しい真実を置いていきました。
「でも、あの秋桜が咲くのは、君がもう、この色を失くしている、ずっと遠くの季節なんだよ。」
紫陽花は、その寂しい言葉を、すぐには理解できませんでした。
ただ、胸の奥に、細い影がさすのを感じるだけでした。
その夏、空は沢山の涙をこぼして、紫陽花の花の色は、青から深い蒼へ。そして、やがて夜明け前の空のような、静かな淡い色へと変わっていきました。
色が抜けていくたび、紫陽花の小さな想いも、少しずつ、土の中へ落ちていきました。
まるで、あの秋桜が、その想いをそっと拾ってくれるのを待っているかのようでした。
そして季節が巡り、丘の向こうの空気が、ふと、物寂しくなった頃。
秋桜が咲きました。
その花は風に揺れて、まるで光の滴をこぼすように、温かい紅の色を灯しました。
秋桜の足もとには、夏にはなかった、柔らかな湿り気がありました。
それは、土が夏の間ずっと大切に抱きしめていた、紫陽花の小さな想いでした。
秋桜は、どこか遠い季節の優しい面影を感じて、花びらをそっとふるわせました。
風が、もう一度、二人の間を通り抜け、静かに囁きました。
「咲く季節は違ってもね、花たちの本当の想いは、土の深いところで、ちゃんと手をつないでいるんだよ。お互いの、寂しさも、嬉しさも、すべて。」
秋桜は空を見上げ、紫陽花が立っていた場所をいとしく思いやるように揺れました。
それから、どれほどの年が過ぎたことでしょう。
紫陽花の根と、秋桜の根は、土の深いところで、いまも触れあっています。
そして、季節ごとに違う色の風が、優しく、二人の間を行き来しているのです。
「見えない扉は、きっと、いつも、月の光にまぎれて、遠い日の記憶を優しくつないでいる。」
※原作「紫陽花と秋桜の話」を修正しました
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