たもつ『父の献立』鑑賞
室町 礼
『父の献立』たもつ
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孤児養護施設で育ったわたしは〈家族〉とい
うものを知らないので詩や小説というものを
全的に読解できないという生まれつきのハン
デを背負っている。
〈家族〉がわからないということは
〈世間〉がわからないということであり
〈世間〉がわからないということは〈国家〉
がわからなことに通じる。
これは考えてみればゾッとすることであって
外部世界の半分以上が人と比べてごそっと
欠落しているのだから、縁があってだれかと
結婚したときも〈家族〉を形成するときに
かなりいびつなものになりかねない。
単独者は〈恋愛〉もいいびつであり〈政治〉
的な立ち位置もいびつになる。
詩や小説を読むときもいびつであり、文学
鑑賞もじつのところ全的に理解できない宿命
が本人の知能や知識の問題とは別の理由で存
在する。
まして詩や小説の批評などほぼ不可能といえる。
わかったふりをしているがわたしは父や母や
恋人や兄弟の悩み、葛藤や愛憎を描いた詩歌を
真円には理解できていない。恋愛沙汰の懊悩も
理解できないし国家、宗教への偏執も理解でき
ない。わたしは多分、生涯、無宗教、ノンポリ
である。
本来わたしはある意味文学的な存在ではあるが、
それゆえに文学に関われないし文学に関わって
はいけない人なのである。
株屋かヤクザか浮浪者かそういった非文学的な
お仕事が向いている。ところが存在が文学的な
ので、なぜか足向きが文学のほうへ向かってし
まうのだ。これはわたしにとって悲劇である。
かかわられる詩歌人にとっては迷惑極まりない
だろう。
天国の門をくぐろうとして地獄の門をくぐって
しまうと書いたのは坂口安吾だったかしらない
が冗談じゃないのだ。
ほんとに冗談じゃない。
外部世界の半分以上が欠落しているというこの
世界認識のガタピシゆえに
人さまの詩歌を読むときも言葉の音楽性、ドラ
マ性に傾いた読み方しかできなかった。
たもつ氏の『父の献立』という詩を読んだとき
もわたしの宿命がもつ〈家族〉というもののわ
からなさゆえに、最初から穴があいたようにわ
からなかった。でも、なにか音楽性というかド
ラマ性というか、詩的な、うつくしさは感じた。
なので「わからない」その穴を、今回はめずら
しく埋めてみたい気になった。「わからない」
ということが実は批評の原点なのであると自分
でかってに納得させられればしめたものだと勝
手にほくそ笑んで、他の人にはあたりまえに理
解できるだろうこの詩をある意味、真の知的障
害者のわたしがほんの少し深堀りに鑑賞してみ
たくなったのだった。
『父の献立』には色褪せた短編映画をみるよう
な軽さとかなしさがあった。
これを題材にわたしがショートフィルムをつく
るとすればこんなストーリーの映画だ。
火急の用事があって母親が家を一日留守にする
ことになり、(母の不在)
父親がめずらしく「よぉ~し、きょうはオレが
おか
あさん代わりにおいしい夕飯をつくってやるぞ」
と息子に向かって腕まくりする。(〈海〉=母
をみせてやるぞと期待させる)
メニュー通りに一分の隙もなく軽量して米と水
を適正に秤り炊飯器に入れて炊き上げるが、
息子はごはんを一口食べるなり眉をしかめる。
「お米研いだ?」
水と米の分量も炊飯時間も正しかったが父親は
米を研いでなかったのだ。(父親のミス。つま
り"準急"は目的地に着かなかった)
息子は父の"失敗"を腹立たしく思って舌打ちし
たことを大人になってから、むしろ懐かしく思
い出す。
それは"環状線"の"踏切"の前に立ったとき。電
車が通過する風が食卓の匂いを運んできたから
かもしれない。
今になって息子は父のミスを許そうとするが、
その父はもういない。(自分よりも大人になっ
てしまった)
今では父のミスが自分にもよくわかるのだ。そ
してそのミスを責めた自分を許してほしいと思
うのだが、幼さゆえに最初からそれは父によっ
て許されていた。(許しの連鎖)
しかし〈母の不在〉という決定的なミスはだれ
にも許されず永久に循環している。母親の不在
は、この詩の空白の中心であり、すべての「許
し」がその周りを巡る。でも、
本当の許しは、母がいないことの痛みを誰かが
背負うことであり、それは誰にもできない。だ
から「許し」は、溺れながら空を見上げる父子
の、永遠の「献立」になる。
ここで孤児のわたしは「家族」というものの凄
惨さにほぼ悲鳴をあげそうになるのです。
(「孤児でよかった!」)
というのもここでわたしは〈家族〉は「許し」
を生み出す構造そのものだと気づかされるから
です。家族は「許し合いながら生き延びる」た
めの、痛みを共有する装置であることを宿命
づけられている。だって血縁は逃げられない
もの。逃げられないとなれば互いに許し合うし
かない。しかし悲劇的なことにはその許しのタ
イミングが常にズレるようになっている。親
は先に「大人」になり、子は後に「大人」に
なる。
詩のように「父はわたしが産まれる前に / 大
人になってしまった」。許しのタイミングが
必然的にズレて役割の欠落が常にある。だか
ら許しは完結せず次の世代に受け継がれてい
くが、それは永久に完結しない。それという
のも〈家族〉に完璧な家族はなく、必ずどこ
か欠損するものだから。そこで〈家族〉は〈許
し〉を発明するしかなかった。
わたしのように最初から〈家族〉のない孤児
の場合は最初から〈許し〉もなく、実際わた
しは育ててくれたお寺の住職のことを思い
出して感謝することがあっても生み親のこと
をあまり考えたことがない。従って「許す」
も「許さない」もない。〈家族〉があらかじ
めないのだから。
この詩が示していることは突き詰めると
家族の「許し」の本質とは、家族が「欠落」
(母がいない)を共有しながら、それでも
「献立」を作り続けること。海に行けなく
ても、子が父を許す。溺れそうでも、空を
見上げるということでしょう。
家族は「誰も悪くない」ことを証明するた
めに、互いを許し続ける。社会では「正義
」や「責任」が求められるが
家族では「正義」は機能しない。だから
「許し」が唯一のルールになる。
膨大な思索的素材が、まるで雨だればかり
の青いショートフイルムのように揺れてい
る物語。それがこの詩をわかろうとしてわ
たしが出会ったものでしたが──。
ウム。やっぱり詩は凄い。とても敵わない。
持続性がなくなり、いつものように尻すぼ
みになりましたが、どうかご容赦。