『暗殺の血』という通俗小説の後半を書くために構想を
かためつつ目下、展開を思案中なので、それまではこん
なことを投稿しているヒマはないのですが、あまりにも
あまりなのでこの問題について意見表明しておきたく、
あえて筆をとった次第です。
今浪悠太という方が次のような詩を「Creative-Writing
-Space」という極内輪的な同人誌的文芸投稿サイトに投
稿されておられます。
タイトルは
『AIを使う奴は全員バカ。すぐに時代遅れお疲れ様。』
となっており、内容は非常に短い。
あなたが、
本気で思うことは、
なんですか?
https://creative-writing-space.com/view/ProductLists/product.php?id=2240
短い詩ですが、
今浪悠太さんのいわんとするところはよくわかるのです。
当たり前といえば当たり前のことをいってるにすぎない
のですが、要するに登山てのは自分の足で歩いて登るこ
とをいうのであってケーブルに乗って頂上までいくこと
を登山とはいわない。そういうことを言いたいのだと思
います。これはある意味非常に現代的なひとつの詩論で
すね。詩論とまではいわないですがかなり切迫したひと
つの問いかけだと感じました。
わたしは構造主義的なテキスト論者じゃないので、書か
れた詩や歌の背後にいる個性的な人間存在の手触り──
温かさや冷たさ、思考、体験、夢などに触れたいので曳
き網漁業のようにテキストを海の底からさらってきてそ
れをぶちまけて取捨選択総合された詩文には触れたくな
い。できればわたしの前にAIでつくった作品は出さない
で欲しいと個人的には願うほうの人間ですが
一方で
わたしは雑文を書くときAIを辞書代わりに利用していま
す。たとえば昭和初期の日本車はダットサン●●型です
が、この●●がわからないときにAIに質問する。
あるいは「類語辞典」代わりに利用する。手垢のついた
表現がいやなとき類語を調べる。「かれは飛び上がるほ
ど悦んだ」なんて凡庸な描写など、殺されても書きたく
ない。そこでブライアン・フリーマントルのスパイ小説
の文体のように「かれは尾っぽがあったら振っていただ
ろう」というような独特の味のある「悦び」の表現にし
たい。しかしそれをAIに求めるのは無理だ。AIは「みん
な」の表現しか集めることができない。だから、じぶん
でほんとうにじぶんにしっくりくる表現を何日かけても
探るしかない。
しかしAIを「類語辞典」代わりに利用すること、これは
どんな詩人もやっていることです。
それから歴史的な事件の概要を調べたり人名辞典代わり
にも利用します。
要するにAIとは、汎用辞書で百科事典でもあるのです。
非常に便利です。だからわたしは一晩で資料を集めて一
晩で小説『暗殺の血』が書けた。後半はちょっと違う表
現にしようとして迷っていますが──。AIがなければ資
料調べや漢字の検索などに一週間くらいかかっていたで
しょう。
だからだれかがAIを表現に利用しても別になんてことは
ない。大騒ぎする必要もないと思う。
だれかがAIを使って詩を書いたとする。それはその人に
とってAI「を利用した」表現であると思えば、やはりひ
とつの表現だ。それがどう評価されるかは保証しないが、
現代はそういう時代にはいっている。
自分がどうしても伝えたいこと、語りたいこと、力説し
たいことがうまく表現できない人はAIに救助してもらえ
ばいいかもしれない。
ただ、AIにまかせていては芥川龍之介がいったような
「戯作三昧」の境地は味わえない。
わたしがむかしヘタな小説に集中してたころ、この「戯
作三昧」の夢のような境地に時間を忘れていたことがあ
る。一種の現実離脱、夢の階梯をのぼる手段として、没
入して物語を書くことに夢中だった。作家になりたいな
んて思ったこともないし、だれかに見せて感心させよう
とも思わなかった。ただ自分が作り出し、描く夢の世界
の中に埋没していたかった。そして戯作三昧に入ると何
日も異世界に住んで時間を忘れた。そこから現実世界に
戻ってくるとさすがに身体がきついですがね。
この快楽を放棄して、AIなんかに書かせていてはもった
いない。一生この面白さは味わえないかもしれない。詩
のことはよくわからないが、詩にもそういうところがあ
るのではないか。ただそれだけのことだといえばそれだ
けのことですが、そこのところをわからないで、AIに表
現を委ねるのは、そういう方は、そもそも文学のみなも
とに触れたことがないのではないかとすら思ってしまう。
今浪悠太さんが「AIを使う奴は全員バカ。」といったの
は「バカ」といったのではなくそういう人はいまだに
「表現行為がなにかわかっていない」といったのでしょ
う。たぶん。そういうニュアンスだと思います。
今浪悠太さんはこの詩にコメントした澤あづさというネ
ット界の巨匠、偉大な文芸批評家?のトンチンカンな反
発に対してこう応えています。
私は親切な人間です。
自分の気持ちを伝えるのにAIを利用するのはやめるよ
うにと伝えているのです。
本気で伝えるというその姿勢こそが重要です。
ゴッホの絵を小綺麗にすることの無意味さに警鐘を鳴ら
しています。
ネット界の巨匠で偉大な文芸批評家、澤あづさという方
が今浪さんの詩に対して、どんなトンチンカンな反発を
したかというと、これをひとつの詩表現や問題提起とと
らえず、今浪悠太さんの「バカ」という言辞をそのまま
受け取って個人的な罵倒とみなしたことです。曰く。
澤あづさ
この文章に読者の「本気で思っていること」(以下便
宜上「本音」とする)を引き出す力があるか否かはさて
おき、本音ってこんなところには書かないのがふつうな
んじゃないでしょうか。ネット詩の界隈には、本音を語
るのが大切とかほざいて一方的な粘着罵倒や陰口の拡散
に励む人間もわりといるが、その罵倒や陰口が本物の本
心なのか、たぶん本人もわかってないですよ。これは本
気で思いますね。
詩は本音を語るものです。
本音を語らないのならそれこそAIに書かせておけばいい。
わたしは本音ならどんな罵倒でも歓迎します。
東京にいたとき小綺麗な画廊があって一度そこに入った
ことがある。すると一人の青年が店主から怒鳴られてい
た。
「ここはあんたのような貧乏人が来るところじゃない、
失せろ!」
わたしは入りかけた画廊から飛び出した。
まったくもってひどいと思ったけど、わたしはむしろあ
まりに正直な店主の本音の爆発に爽快さすら覚えた。
ひとつ何百万もする商品を置いている。たしかにわたし
たちのような者がうろうろするところではない。
同じく若い頃、東京の西大久保のある瀟洒な喫茶店に居
座って何時間も小説を書いていたことがあって、そのと
きも同じような調子で店主から罵倒され、追い出された
ことがある。コーヒー一杯で粘っていたのだから怒鳴ら
れてもしょうがない。むしろ本音を爆発させるその店主
に好感をもった。
せめて詩のなかでは本音で語ってほしい。差別も、不平
等も、戦争大好きでも、女性蔑視でも、詩なら語れる環
境であってほしい。差別反対や平和、女権などは政治活
動でやればいい。それがなぜか今は文学と政治活動が互
いに侵食しあい互いに腐食して色褪せている。
もとい、
そもそもこのおばさんの語調、内容こそが罵倒そのもの
ではないでしょうか。このおばさんのブログなど一度し
かみていませんが、わたしに対する罵倒であふれていて、
某氏からそのことを注意されるとその注意したコメント
をこそっと消していた。わたしにいわせると上記の今浪
悠太さんへのコメントもおばさんの分類からすれば罵倒
としか思えない。じぶんで罵倒の分類をつくっておいて
それを自らやっている。そもそも今浪さんの詩は短い内
容とはいえ、そこにはかなり切迫した現代的な問題提起
がある。それを汲み取って批評も出来ないで何がネット
界最大の批評家かと首をかしげる。こんなババアを持ち
上げるなど、ろくでもない連中だ。
こんなヒステリックな罵倒おばさんのことは無視して本
題に戻りますが、あのう、ひとつだけ今浪さんとは違う
予想をするとすれば、AIは廃れるどころかますますこれ
から表現の杖となり耳となり手となるでしょうね。
それはだれも止めることが出来ない。わたしなど、AIを
大いに汎用辞書、汎用百科として活用してもらいたいけ
ど表現の楽しみまで委ねるのはもったいないじゃないか
と思うけど、
そもそもですね、笑 「きみ」「ぼく」という汎用語が
出てくる昨今のファンタジー詩やファンタジー小説をみ
ていると、人間が使う言葉だって最初からAI的じゃない
ですかといいたくなるのです。ちなみにわたしは全投稿
詩において「きみ」「ぼく」を使ったことがない。投稿
詩に「きみ」と「ぼく」が出てきたら反射的に遮断しま
す。
それはすでにしてAI詩だからです。この意味、わかって
いただけないでしょうけど
大昔から詩人はそういう意味でAI的な言葉(みんなの言
葉)と戦ってきたのです。