通俗小説  暗殺の血
室町 礼

まだ幼い顔をしてよく笑い無闇に飲む女だった。
それはこんなカフェで働く女給に共通する苦い演技だ
ったがその裏には深い不幸がまとわりついていること
を毛利基は仕事柄見抜いていた。
カフェ「ホリウッド」に一週間通い詰め、タキを指名
して大枚を散財した。すべて公金から出ているのだか
らどうということはないが──。
ある日、とうとう酔ったタキの方から切り出した。
「お客さん、"おかみの目"でしょ?」
"おかみの目"というのは当時国民の間で怖れられ嫌悪さ
れ蔑視もされた特別高等警察官、特高を庶民が語ると
きに使う俗語だった。
毛利はけろっと正体をあらわした。
「うん? わかっていてどうして逃げなかった?」
「あたしは一銭でも稼げりゃいいのよ。どうしてこん
 な上客置いて逃げないけんの」
「カネか。
 ──小林のことはもう忘れたのかい?」
タキの表情の変化をわずかでも見逃さないように注視
して恋人の名前を口にした。
「おっかない眼してら」
タキは酔がさめたように秋田弁を丸出しにした。
「わだもうあの人とがァ関係ねえっちゃ」
「そうかあ? 綺麗なべべ着てバイオリンも習わせてく
れる家に引き取られたってのに」
タキは以前、身売りされた居酒屋から小林多喜二に身
受けされ多喜二の実家に引き取られたのだった。
毛利はタキの杯に酒を注いでやった。
「そんなええところから家出するなんて、聴いたこと
ないぞ」
どうやら一番語りたくない話題だったらしくタキはテ
ーブルに顎を乗せて黙ってしまった。
「その上、また東京くんだりまで出てきて同棲して、
また家出かよ。おまえさんたちどうなってんだ」
「あたしの生活はぜ~んぶお見通しってわげだ」
タキはぷいと横を向いた。なるほど美人だった。ひょ
っとしてロシア人かアイヌの血が混じっているかと思
われるほど彫りが深くしかも日本的な丸みを帯びた輪
郭の顔だちで愛嬌もある。これは小林多喜二ならずと
も夢中になる。酌婦には勿体ない。
「あんたをしょっぴこうってんじゃないんだ」毛利は
やさしくいった。「酒席の与太話ちゅうことでな彼氏
の消息を教えてほしいだけだ」
できることなら毛利は小林多喜二の愛人であるこの田
口タキを時間をかけて監視したかった。ホテルの清掃
係だの看護師見習いだのパーマ屋だのと仕事を転々と
している。小林多喜二と同棲したかと思うと、家出す
る。連中にくみして東京で破壊活動を幇助しているの
かどうか。もちろん地下に潜伏中の小林の居所も知り
たかった。しかし昨日特高部長から悠長な時間はない
と催促を受けたのだ。いわく。
 当管内ニ於テハ極左活動数回台頭スルモ、早期ニ之
 レヲ発見セシメ其ノ都度徹底的検挙ヲ見、極左運動
 ヲ一掃スレドモ楽観ヲ許サズ。従テ将来ノ共産党ノ
 台頭如キハ軽視スベカラザルモノト謂フベシ。トク
 ニ我ガ東京市管内活動ノ頭目小林多喜二ノ検挙ヲ何
 ヨリ優先スベシモノトス。
斎藤実首相が警視総監を官邸に呼んで赤色主義者の早
期壊滅を強く要請したのがこの年の一月。小林多喜二
は前年、底辺労働者の苦悩を描いた小説『蟹工船』を
出版して紡績工場で働く女工や農業、漁業に関わる底
辺労働者などのあいだに圧倒的な共感の渦を巻き起こ
した。共産党入党者が相次ぎ、それが政府、大企業に
衝撃を与えた。毛利も小説ごときにこれほどの力があ
るとは予想もしなかった。小林多喜二は即座に官憲の
監視下に置かれ三月に『蟹工船』は発禁処分となった。
そんなこともあり小林多喜二逮捕は至上命令だった。
ゆっくりしているヒマはなかった。
「おめさんの名札、ちょっこ見せてもらえねがどや?」
田口タキは何か気になったかのように突然そういった。
「名札ってサツ手帳か。いいよ」
監視対象者からは信頼を勝ち取ることが何よりも優先
される。毛利は小ぶりの手帳を彼女にみせた。アメリ
カのFBIを真似たもので黒革の表面には大きな桜の記
章がある。その下に警視庁という金文字が分厚く刷ら
れていた。それをタキへ信頼のしるしのつもりで手渡
した。
「おっつぇね! あんた特高の課長さんかね」
中を見るなりタキはなにか危ないものに触れたかのよ
うに手帳を押し返してきた。
「ひとりでこんな高いカフェに来ているから只の人と
はおもわなんだけど」
「わしだっておまえさんと同じ。東北の、百姓の出だ
よ」
あまり他人に語りたくない出自だがタキの共感を得る
ために毛利はあえて口にした。
田口タキはうん、と頷いた。
「いやに素直だな」
「只の人とは思わなんだけどなんかあんたの雰囲気に
は人懐かしいものを感じてたさ」
その言葉に毛利は少し狼狽した。
毛利基は福島の貧農の出で中学をニ年で中退している。
その後、上京して巣鴨署の巡査になるが猛勉強をして
巡査部長から警部補へと出世した。さらにその後労働
部次席として四・一六事件といわれる共産党の一斉検
挙に大きく貢献したのだった。1932年には高等警察課
が警察部に格上げされたのを期に毛利は大卒を押しの
けて初代特高課長に任命される。
毛利はしかしタキの正直さに好感触を覚えていた。
「あんたと大して変わらない生まれのわしは運がよか
っただけだ。だから売られて苦労した人間の気持ちが
わからないわけじゃない」
といってからちょっと早まったかなと思った。辛酸を
舐めているだけあってタキは安っぽい同情をすぐに警
戒した。
「やり手なんだね、あんた」
苦労を重ねたまだ二十歳そこそこの鋭敏な感性は偽善
をすぐに見抜く。下手な同情は逆効果だ。毛利はざっ
くばらんでゆくことに決めた。
「あのな、小林はな、本心からあんたを家に迎えたわ
けじゃない。自分を自分で偽っただけのことだ。よう
するに革命家はこうでなければならないという四角四
面な思い込みだけであんたを引き取っただけ。心がと
もなっていない。虚しさを感じたのは当然なんだよ」
タキはまた貝のように口を閉ざしてしまった。
「この手みろや、ほれ」と毛利は両手をテーブルの上
にひろげてみせた。
胼胝たこだらけだろ。ガキのころから畑仕事やら木こり
やら家の手伝いやらされてこんな格好の悪い分厚い手
になってしまった。小林がこんな手していたか? 生
っ白い女みたいな手だっただろ? そんなやつとおれ
とどっちが信用できる?」
そういうとタキが初めてくすっと笑った。
「あんた、ほんとに特高の課長さんかね」
「んだ。ペテン師かもな」
毛利はわざと故郷の福島弁をさらしておどけてみせた。
「小林先生のことは好きだよ」
初めてタキが本心を漏らしたように見えたが、
「でも、もうあの小林先生には会わん。ありがたいけ
ど息が詰まる」
やはり本心とは思えなかった。警察の監視を解きたい
一心でそういっているようにもとれる。
「おまえさんがそういうのなら、それでわしもほっと
したよ」
「なんで?」
「わしはな、この手であいつの息の根をとめてやろう
とおもっとるんだ。あの偽善者の息の根をな」
毛利はわざと芝居がかって言った。
「やめて下さい」タキは甲高い声をあげた。「あの人
はそんな人じゃありません。やさしい方です」
「自首してくれば話は別だ。自分から出頭したものを
殺すわけにはいかんからな」
「自首なんかするものですか」
「タキっ。まだわからんか。他にも身を売られた子は
山ほどいた。その中からお前を選んだのはタキという
語呂合わせからだよ。だれでもよかったんだ。たまた
まタキという名前から興味を持たれて、おまえさんは
犬やネコを買い取るように引き取られただけだ」
タキは顔をしかめた。
「そうだとしても、なんで先生が悪人なん? なんで
あの人が世間から極悪人みたくいわれなならんの? 
ねえ、特高さん、先生が何か悪いことした?」
「それは話せば長くなる」
これ以上、タキを興奮させては今後の協力関係を築く
上でマイナスになると判断した毛利は立ち上がった。
「わしの配下の同士警察官がこれまで14名もやつら
の暴力によって重軽症を負っている。最近では爆弾製
造の報告もある。この首都で爆弾騒ぎが起きてからで
は遅い。そうなってはお前さんの彼氏を救けることも
できない。これは電話代だよ」
といって毛利は一円札と名刺をテーブルに置いた。当
時の電話代はかなり高額だった。「居所がわかったら
電話しなさい。悪いようにはしない。今なら有罪にな
っても五年かそこらだ。事件を起こす前に逮捕すれば
あの男も命だけはたすかるし恩赦もある。これは同じ
田舎者同士の約束だ。おまえさんが協力すれば多喜二
を生きて返してやる」
もちろんウソだった。毛利は多喜二を捕まえたら生か
して返すつもりはなかった。裁判なんて悠長なことは
やってられない。それは世のため人のためにならない。
それほど危険な男だ。この子も、もっと大人になれば
わかってくれるはずだ。
配下の刑事たちが二十四時間見張っているのであとを
まかせ、彼はカフェ「ホリウッド」をあとにした。

翌朝、霞が関にある五階建て鉄筋コンクリートの警視
庁新庁舎に毛利が出勤するとすぐ電話が鳴った。内務
大臣が直接会いたいという。大臣秘書官が伝えてきた。
当時、内務大臣といえば警察組織のトップのさらに上
に君臨していた。そんな雲の上の人物が一課長を呼び
出すなど前代未聞のことだ。毛利は電話を置いて眉を
しかめた。内務大臣は地方行政、警察、土木、衛生、
国家神道を一括管理する国務大臣として大きな権限を
もっていた。ただしこのときの内務大臣、山本達雄は
海軍出身の政治家で警察行政はまったく疎かった。
それゆえに庁内では暗愚な内務大臣ともっぱらの評判
だった。
早速官邸に駆けつけ、かしこまって大臣室に入ると山
本は「おう」と声をかけただけで書類をかき回しなが
らこういった。
「一条実淳という学生を調べているそうだが、何の関
係だ──?」
「はい、あれは共産党関係でございます」
「共産党? 共産党とは何だ?」
だれもいなかったら毛利はそこで尻もちをついていた
だろう。警察を統括する最高位の内務大臣が共産党も
知らないとは信じられなかった。山本達雄は平気な顔
をしている。「共産党とは何なんだ、うん?」と面倒
くさそうに答えを待っている。
やむえを得ず毛利は共産党のスローガンを並べ立て、
次に簡単な説明をしようとしたところ、
「ああ、アカかぁ。わかった、わかった。早く返して
やれんか」といった。一条という学生のことである。
毛利はむっとした。共産党が何か最初からわかってい
てこちらの気勢をそいだのだ。「大臣、おそれながら
あの学生は今、日本橋の堀留警察署に留置しておりま
すが共産党中央委員会直属の政治部指導連絡係で自白
を拒否し、居直っています。取り調べが済むまでは...
....」
「おい、一条家の者で今上陛下の親戚筋にあたるお方
の息子だぞ」山本は声を荒げた。
「いいから、やることをやれ」
ったく、このクズ政治家め。部下が命をかけて国を守
っているのに容疑者を釈放しろとは。こんないい加減
なトップを見ると拷問の上、首を締めてやりたくなる。
「国体の維持存続を前に公家だの天皇などそんなこと
は関係ありません」と、びしっといってやりたかった
が毛利はこらえた。
「大臣、共産党関連は国家危急の大問題です。調べを
終えずに返すとあとあと大変なことに」責任を匂わせ
た。
「うん? きみの一存では無理か」無能なくせに保身に
だけは敏感な大臣だった。
「はい」
この男は警視総監を通せば厳しく非難されるがゆえ直
接毛利に指示し、かれのような小物に責任を負わせる
つもりだったようだ。
「大臣の一筆があれば別ですが、わたしごときの一存
ではとても」
「ちっ。これだから百姓の出は使えない。帰っていい
よ」
毛利の出自に皮肉をいってから手で追い払われた。
官邸から回された公用車ダットサン12型は帰りには送
ってくれなかったので毛利はそう遠くない警視庁まで
歩いて帰ることにした。
沿道のポプラの木々が風に震え、大きな葉がざわめい
ていた。それが毛利には己の身体を流れる血のざわめ
きの如く感じられた。
だれが内務大臣にまで手を回したかはわかっていた。
特高の役職についてから逮捕者の親戚縁者たちの対応
に追われることが多くなった。主義に狂う連中の幹部
には帝大を出たような高学歴の御曹司が少なからずい
て、何不自由なく育てられた若君の乱行を初めて知っ
て泣き叫び、すぐに釈放せよと取り乱す親たちが彼の
もとに引きも切らず陳情に来ていた。
一条家の執事と名乗る男が馬車に乗って訪ねてきたの
は三日前のことだった。
「わたしのところの主人が調べられて居るそうですが
是非帰してもらいたい」と髭をたくわえた中年男は毛
利に向かってやや高飛車にいった。
毛利がどう言って返せばいいのか逡巡していると、
「主人の母君は宮中に女官として務めておられますが御
子息の安否を非常に心配されております。おまえ引き
取ってこいと命令されて来ました」という。
そして取調べ中の容疑者の父がしばらく前に病死して
母子二人の生活であることを強調した。
それは身辺調査をした毛利にもわかっていた。今や、
学生の身でありながら留置中の若者が一条家の当主に
なってしまったのだ。毛利はいった。
「それは心配でしょう。でも、それほど心配なら何故
ご自分でおいでにならないのです?」
「それは──」
「宮中のお仕事が忙しいことはわかります。しかしこ
れからのこともある。ご本人がおいでになって直接息
子さんの姿をみれば何が起きているかよくわかるはず
です」
いったいどういう教育をしてきたのか、母親に会って
みたかった。それも捜査の一環である。執事はわかり
ましたといって帰っていった。そして次の日には再び
早朝から姿をあらわした。
「あなたの話を申し上げましたところ.....」
執事は言い淀んだ。「まことに言いにくいのですが、
じぶんは不浄役人のところには行かれないと申され、
どうしてもお出になられません」
「ほう」と毛利はうなづいた。「不浄役人ねえ」
警察官が庶民と融和をはかる政策がとられているご時
世に特高は同じ警察官である交番の巡査からも「影」
といってうとまれ庁内の刑事からは「犬」といって嫌
われていた。庶民からは「ごろつき」「人でなし」扱
いである。
「不浄役人」というのは徳川時代の十手取縄を持つ岡
つ引を指していう上流社会の用語であつたはず。小説
や講談本で見たことはあるが面と向かっていわれたの
は初めてだった。毛利は珍しく額が熱くなるのを覚え
た。
「陛下のお側に仕えているお方が不浄役人に会うのが
陛下に悪いと考えるのなら、その不浄役人に捕まって
いる子を持つ親はどうなるのかよく考えていただきた
い」
執事はしかし生まれつきの習性なのだろうか、そんな
皮肉をいっても毛利をそこらのバッタかキリギリスを
みる程度の眼でしか見ていない。
「ここへは上流階級の母親が恥も外見もなく子のため
にやってきて己の身を殺しても救おうとしている光景
が日常茶飯ですよ。しかし一条家の奥方はなんと冷淡
な方でしょうかね。この事件はわたしどもは勝手に取
り扱いできませんからそうお伝え下さい。いずれ新聞
にも出るかもしれませんから、悪しからず」といって
席を立った。
そんなことがあってすぐ内務大臣の呼び出しだった。
一条家は大臣を動かせばなんとかなると思ったのだろ
う。しかし治安維持法が特高に与えた巨大な権限を犯
すことは大臣にしても不可能だった。特高は裁判所の
令状なしで逮捕や家宅捜索を行うことが出来るし、犯
罪の証拠がなくても任意の人物を拘禁することも認め
られていた。つまり、特高には検事や判事の権限すら
及ばないのだ。
さらには出版物の検閲、発禁処分の権限、そしてあら
ゆる政治団体、文化人組織への監視捜査の権限も付与
されていた。いわば特高警察の実務を担当している毛
利は天皇家以外のすべての日本人の生殺与奪権をその
手に握っているともいえた。
沿道のポプラの木の葉はまだざわめいていた。
毛利は胼胝だらけの分厚く醜い両の手のひらを眺めた。
その手をみてくすっと笑ったタキの無邪気な顔が思い
出された。
(つづく)





※じぶんの小説技能がどの程度か試すため昨夜一晩で
書いたものですがイイネが多ければ続きを書きます。


散文(批評随筆小説等) 通俗小説  暗殺の血 Copyright 室町 礼 2025-09-20 09:17:57
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