センテンツィア
室町 礼

空がゆっくりと落ちてくきて夜になると闇が呼びか
けるように地の底から光の洪水が押し寄せる。そ
の光の海と、路上のダンボールハウスの浸透圧が
重なる時刻、一艘の小舟が歌舞伎町のJRガード
下を流れるようにくぐる。たちまち光の泡が押し
寄せ〈かれ〉はだれからもみえなくなる─。

鸚鵡貝にみたてた、アスファルトと鉄のオペラ座
。その地下道に一匹の鴉がいる。飛べない羽をた
たみ、この一年、ずっと爪先をみている。失恋し
た元プロレスラーがいくあてもなく足音を響
かせて通る。正気を失ってしまった哀れな肥満体
の男は粗相をした女優のように内股で歩いている。
口からどろりと灰色の影を吐いた不動産屋の老人
は老人斑の浮いた禿頭を断頭台に乗せるように伏
して壁際で酔い潰れている。
片脚のない中年女が地下道の出口を探している。
首の腱を針金のように張り「あ」音と「い」音を
間欠的に交互に突き上げながらもと来た道をいざ
りながらさまよっている。瞳だけが朝露のように
透明でうつくしい他は粗末な服と同じくらい粗末
な皮膚は黄ばんで干からびている。
墓石がそびえたつ地表には無数の数字たちが笑い
さざめきながら革靴やハイヒールを履いて交信し
、小さなパネルに収斂されていく。それを人工衛
星が回収し、支払い能力の多寡に換算して地表に
送り返す。

はじける光を背景に長い黒髪を垂らしたリヤカー
のジュジュがゆく。痩せ細ったジュジュの歩行は
止まっているかのようにみえる。引き上げられた
後足が前足と入れ替わるまでに、風景はすっかり
変わる。それはリヤカーに積まれたゴミの重さの
せいかもしれない。あるいはジュジュは暗黒舞踏
のカリスマのように路上でダンスを踊っていたの
かもしれない。いや、かれは、闇からの光に目が
くらみ独りでオリエンテーションをこころみてい
たのだろう。目立つものは殺されるぞ、といわん
ばかりに。慎重に。 
リヤカーを引くジュジュの影をプログラミングさ
れた男たちの影が追い越していく。電荷のように
瞬時に数百メートル先へ。そこへ、デフラグされ
た女たちの笑い声が星のように落ち。フォーマッ
トされた恋人たちが再フォーマットされた恋人た
ちと行き交う。数字は名詞を口にし、幽霊は感動
詞を叫ぶ。
地も木も空も鏡でつくられた森がある。
その扉がひとつ ──ちりんと鳴って、丁寧に包装
されたおんなたちが黒い紳士を送り出す。角柱に
映った巡礼の男の汚れた姿をみて女のひとりが小
さな声をあげる。男は白い歯をみせて微笑んでい
る。振り返ってもだれもいない。男の断片はすく
なくとも幾度もの屈折と反射を繰り返してそこに
届いているのだろう。漫画喫茶、居酒屋、キャバ
クラ、ホストクラブ、風俗店、ラブホテル、パチ
ンコ店の柱や庇や窓ガラスや扉のなめらかな鏡の
なかを巡ってきたのだ。男はひょっとするとその
ビルの裏道を逍遥しているのかもしれなかったし
、笑いかけているのは野良犬の仔にだったのかも
しれない。
露店には黒い手で摘まれた果物が山積みになって
いる。それはもうだれの汗も爪痕も残さない。そ
れはもう果物を異国から運んできた巨大タンカー
を映さない。それはもう西陽の影になった木立の
シルエットを映さない。それはもう舟になった男
の瞳にも映らない。果物売りには〈かれ〉がみえ
ない。

夢のスクエア ── 祭壇は酒場の裏にあって、そ
こには色ガラスの林があった。色ガラスの底には
琥珀色の吐息が忘れられている。ちりちりちりと
空から落ちた光がガラスの肩にのってちいさな火
花をあげた。〈かれ〉は跪き、祈りを捧げる聖者
になる。祝宴がはじまる。天体からは、もうその
姿はみえない。


自由詩 センテンツィア Copyright 室町 礼 2025-09-18 17:56:59
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