現代詩
降墨睨白島(furusumi geihakutou)
書いていてずうっと思うのは『現代詩』って何だろうということ。現代を生きる僕らが書く詩はすべて現代詩。以上、というわけにはいかない。現代はもちろん過去から繋がっているのてま、現代詩は現代詩であると同時に日本文学詩であると思う。いやいや、私は私の思いを自由に言葉にするんだ!的な人もいるだろうし、文学史?かったるい、楽しめばいいじゃん的な人もいるだろう。だけど、そういう場合、言葉の羅列になってはいないだろうか?厚みがないと言うか、質量、重量が感じられないというか。それこそ現代言葉の羅列であって、詩作品たるかという疑問。かくいう自分自身も勉強不足、羅列的なモノを先日上げた(笑)なので、ああだこうだいえる立場ではないので歯に絹着せる。自戒も込めて言葉の羅列の軽い文書崩れみたいなものは書かないでおこうと思う。それと、第一の読者(他者)である自分を含めた時空を超えた他者を意識して、純然な日記的なもの(作品化されるに足るものは除く)、自己体験、自分の悩みやこころの葛藤(他者に対して意味、意義のあるもの除く)を書いたようなものは書かないでおこうと思う。これらをもって、現在の自分の中にある『現代詩』である、かなあ。