詩壇における「籠モル化」とは何か ― 閉鎖性がもたらす評価の固定化と新規性の排除 ―
atsuchan69
「籠モル化」という言い方はまだ一般化していないが、ここでは詩の現場で見られる閉鎖的な相互評価の力学を指す仮称として用いる。語源は特定のグループに「籠もる」ことを強調した俗称で、少人数の内輪に作風や価値観が収斂し、互いの評価が内部で完結していく傾向を表す。簡単に言えば、ごく少数の「籠」の内部で似通った詩人たちが集まり、相互承認によって閉鎖が強化されていく現象である。
簡単に言えば、「籠モル系」の詩人たちとは、ごく少数の「籠」の内部に集まり、似たような作風や価値観を共有する人々が、互いに評価し合い、結果として閉鎖的な状態を作り上げてしまうことを指しているのだ。
この「籠モル化」がもたらす問題は、決して一部の小さなグループに限定されない。それは詩壇全体の活力や多様性に深刻な影響を及ぼしている。以下、その問題点を整理してみよう。
1. 独自的な価値観の形成と固定化
外部からの批評や新鮮な視点が入りにくくなることで、内部でのみ通用する独自の美意識や評価基準が形成されてしまう。これにより、外部の読者や批評家からは理解されにくい「内輪の言語」が出来上がり、外に向けて開かれた詩作が育ちにくくなるのだ。たとえば、ある同人誌や詩誌の内部でのみ高く評価される作品が、広く一般に紹介されたときにはほとんど理解されないといった事態が起こり得る。これは詩そのものの可能性を狭めるばかりか、結果的に詩壇全体の信頼性をも損なう危険をはらんでいる。
2. 新規性の抑圧
「籠モル化」のもう一つの深刻な弊害は、新しい表現の芽を摘んでしまうことだ。内部の評価基準が固定化している以上、それに沿わない新しい書き方や異なる価値観を持ち込むことは難しい。多くの場合、それらは「理解不能」として切り捨てられるか、あるいは見なかったことにされてしまう。結果として、既存の「籠」に入らない表現は排除され、詩人は同質化の圧力に晒される。これは詩が本来持っている自由な創造性を大きく損なうものだ。
3. 承認の相互依存
さらに、「籠モル化」した環境では、詩人同士の承認が評価のすべてになりがちだ。つまり、作品の価値は「外の世界」ではなく「籠の内部」での承認に左右される。互いに褒め合い、評価し合うことが目的化してしまい、作品が持つ本来的な力を吟味する批評性は失われてしまうのだ。この構造が長期にわたって続けば、詩壇は自律的な批評能力を喪失し、単なる互助会的な共同体に堕してしまう危険がある。
4. 詩壇における「籠モル化」の背景
では、なぜこのような「籠モル化」が生じるのだろうか。その背景には、詩というジャンルがもともと狭い市場と読者層に依存していることがある。発表の場は限られ、商業的な成功もほとんど見込めない。そのため、詩人たちは自然と「内輪」に支え合いを求める傾向が強まる。互いに評価し合うことが、実際的な励ましや承認の場として機能してしまうのだ。これは人間的には理解できる側面もある。しかし、その結果として詩そのものが停滞してしまうのでは、本末転倒と言わざるを得ない。
5. 解決のために必要な視点
「籠モル化」を打破するには、いくつかの方策が考えられる。第一に、外部への開放性を確保することだ。詩人同士の評価に閉じこもるのではなく、一般読者や異なるジャンルの作家との交流を積極的に持つ必要がある。第二に、批評の復権が不可欠だ。単なる相互承認ではなく、作品の強みや弱点を具体的に指摘し合う批評文化を育てることが、詩壇に新たな呼吸を与えるだろう。そして第三に、異質なものを受け入れる寛容さを持つことだ。理解できないものを排除するのではなく、理解できないままに共存する姿勢こそが、詩の多様性を支える土台となる。
6. 「籠モル化」の先にある未来
詩は本来、言葉の自由を最大限に追求する営みである。ところが、「籠モル化」が進むことで、言葉はかえって不自由なものとなり、閉じた価値観の中に縛られてしまう。もし詩壇がその方向に傾き続けるなら、詩は社会における存在感をますます失っていくだろう。しかし逆に、この現象を自覚し、乗り越えようとする動きが生まれるなら、詩壇は新しい地平を切り開くことができる。
いま必要なのは、「籠」の外に目を向け、詩を開かれた言葉として再び社会に差し出す勇気である。小さな籠の中で互いを称え合うだけではなく、未知の読者に届く表現を模索すること。その営みが、詩壇の停滞を打ち破る力となるだろう。
結び
「籠モル化」という言葉は、一見揶揄のように響くが、そこに潜む問題は決して軽視できるものではない。閉鎖性がもたらす自己満足の構造を解体し、多様な声を受け入れる詩壇を築けるかどうか――それが、今後の日本詩壇にとって大きな課題である。
詩は本来、個人の内面を超え、世界に開かれたものであるはずだ。その原点を取り戻すために、私たちはいま一度「籠」の外に出る覚悟を問われているのである。