終わり続ける夏の日
ホロウ・シカエルボク
ほんの一瞬のため息みたいなきっかけで降り始める夏の雨、傘を持たない僕たちは高速の高架下に急いだ、雲の上の貯水槽が割れてしまったみたいな降り方だった、それでなければ、広範囲に拡散された滝のようだった、降って来るというよりは落ちて来る、次々と水が落下してくる、落石みたいな、落水、僕たちはそれを見ながら大変なことになったなと思う、君は濡れた大きめのシャツや髪形を気にしている、雨はやみそうにない、昔そんな歌があったな、と僕はぼんやりと考えていた、君は小さなくしゃみをする、寒い?と反射的に聞いてしまって、僕は自分を馬鹿みたいだと思う、まだ九月になったばかり、大丈夫、と君は短く答える、僕はまた雨を見る、勢いはまるで落ちていない、だけど、そんな雨だって嘘のようにやんでしまうことがある、それが希望と言えば希望だった、なにしろここは街中じゃない、一応人の居住区だって近くにあるけれど、晴れていたさっきまでだって人なんて数人しか見かけなかった、そういう古い住宅地、おまけに、逃げ込んだ高架下はそんな住宅地からは少し離れた丘の上にある、バスもタクシーも拾えそうもなかった、でも、それはどうにでもなる、タクシーならスマートフォンで簡単に呼ぶことが出来る、でも、以前に比べてタクシーなんて簡単に利用出来る値段じゃない、ある程度の距離じゃないと申し訳ない気持ちになるし、出来れば雨が止むのを待って来た時と同じように歩いて帰りたかった、結局あとは雨次第ということだ、僕たちはしばらくの間黙って空を見上げていた、人気の無いところでそうしていると、自分たちが世界と大きく隔絶したところで存在しているような気分になった、でもそれは決して悪い気分じゃなかった、それはどちらかと言うと僕にとっては理想の世界だったのだ、彼女は嫌がるかもしれないけれど、こういう風景ってなんだか歳取ってから何度も思い出す場面になりそう、と、不意に君が呟いた、なにそれ、と僕は笑いながら訊く、あるじゃない、どうしてかわからないけどずっと覚えてる景色って、と君も笑って言う、私、赤ちゃんよりちょっと年上くらいの小さな頃にどこかの家の玄関で同い年くらいの男の子と二人で遊んだ記憶あるの、へえ、と僕は生返事をする、その家は二階建ての家なんだけど、一階と二階で別の家族が住んでたの、私が遊びに行ったのは二階のほうのお家でね、だから、玄関は凄く日当たりが良かったの、昔の、アルミ製の引戸でさ、茶色のフレームで、所々、明り取りのガラスがはめこまれていて、そこから、多分午前中だと思うんだけど、斜めに真直ぐな光が差し込んでいてね、そのことを凄く覚えているの、きっとなんか、その光のせいなのよね、小さな埃が光の中に浮いていて、なんだかその中に神様が居るんじゃないかっていう感じに見えたのよね、一緒に居た男の子もずっと、私と同じようにその光を見ていたの、私いつも思い出すのよ、その時のことを、こんな風に、人生に隙間が出来たみたいな時間にね、人生の隙間か、と僕は反芻した、あなたの人生はとても隙間が多いわね、と君が僕をからかう、僕は苦笑する、完全に同意する、と僕は返す、君はきゃははと笑う、あなたはないの、と君が尋ねる、うん、なにが?と僕は返す、もう、と君は膨れる、何度も思い出す場面よ、と僕の肩をぽんぽんと叩く、何度も思い出す場面、僕はその言葉を額面通りに受け取ることが出来ない、身体中の血が冷えるのがわかる、君はすぐに僕の異変に気付く、ちょっとどうしたの、と、ぐらつく僕を支える、心配と、何か余計な扉を開けてしまったのかもしれない、という感情が表情に現れている、座る?と君は言う、大丈夫、と僕は答える、正直息をするにも難しい状態だったけれど、それだけは言っておかなければいけなかった、すぐにおさまるから、と言ってしばらく支えてもらう、そうしているうちに雨はやんだ、太陽が過剰なくらい辺りを照らし始めると同時に、次第に気分も良くなってきた、帰ろう、と、僕は言った、私何か、余計なこと訊いてしまった?と君は僕の顔を覗き込む、なんとも言えない不安に突っつかれているような顔をしている、そんなことない、と僕は否定する、ただ僕の中にほんの少しどうしようもない記憶があるだけさ、と、出来るだけ冗談めかして答えたけれど、目だけは笑えていなかったかもしれない、君がそれに気づいたかどうかについては結局訊くことが出来ないままだった、今僕はあの高架下の近くを歩いている、空はやっぱり過剰に晴れ渡っていて、蝉がヘヴィ・メタルのフェスみたいに大勢で騒ぎ続けている、どこかの山で枯草を焼いている匂いがする、少し早い赤トンボが僕が危険な生きものかどうかを確認するかのように近くで少しホバリングをしたあと飛び去っていく、十五分に一台くらい、もの凄く高速で走る車が一本道を走り去っていく、夏の終わりを歌った歌を聴きたくなった、時々人生が凄く残酷に思えるのは、人の心などお構いなしに過ぎていくせいだ、ねえ君、今では僕は、こんな夏の終わりが世界の終わりみたいに感じることがある、そしてそれは刻印みたいに僕の心に刻まれて、思い出すどころかやたらと付き纏って拭い取ることさえ出来やしないんだ。