「文学極道」への弔辞(再校正済み編)
室町 礼

森進一に『港町ブルース』という歌があります。

  背伸びして見る海峡を
  今日も汽笛が遠ざかる
  あなたにあげた 夜をかえして
  港 港函館 通り雨

最近のことですが、
この歌の冒頭二行の詞をみて姿勢を正しました。
ひょっとするとこの歌詞は現代詩としてもかなり優
秀な台詞じゃなかろうか。
急いで二連以下、六連までの詞を読んでみましたが
一連のようなキレのある言葉がない。
あとはどこにでもある凡庸な歌謡曲でした。
二連目はこうです。

  流す涙で割る酒は
  だました男の味がする
  あなたの陰を ひきづりながら
  港 宮古 釜石 気仙沼

内容のことではなく冒頭のモノとは表現の質にお
いて乖離がありすぎる。
これは一体どうしたことだ?
三連、四連、五連、六連も話にならない。

  出船 入船 別れ船
  あなた乗せない帰り船

  別れりゃ三月待ちわびる
  女心のやるせなさ

  呼んでとどかぬ人の名を
  こぼれた酒と指で書く

  女心の残り火は
  燃えて身を焼く桜島

もちろんわたしなどには書けない技巧的な歌詞で
あることはわかりますけど、どこにもあるあたり
まえに歌謡曲らしい台詞ばかりでした。一連の一
行それに続く二行だけが現代詩として成立してい
るような気がしたのですがこの作詞家は二行だけ
力を入れてあとは手を抜いたのだろうか。
そこで色々調べてみると
この歌詞は雑誌『平凡』が全国に作詞を募集して各
地から寄せられた3万7582通の中から7通を選
んで作詞家のなかにし礼が補作し、猪俣公章が作曲
したものらしい。
『港町ブルース』の作詞家は深津武志となってます
が、じつはこの人物が一連目の詞を応募した若者で
した。詩のことばに敏感なプロのなかにし礼はすぐ
さま彼の才能を見抜いたのでしょう。7名の中から
彼を選んで『港町ブルース』の作詞者にしたのだと
わたしは推測しております。
それにしても一連は傑出している。
    背伸びして見る海峡を
    きょうも汽笛が遠ざかる
海峡ってものを歌うときにどうして冒頭に「背伸び
して見る」が来るのか!? どうしてこんな凄いこ
とばの選択が出来るのか。これが「ポケットに手を
いれて」でもなく「しゃがんで」でもなく「タバコ
に火をつけて」でもなく「背伸びして見る」が冒頭
にくるとこの世界は無限に広がる。大人ではなく少
年だったの? とか、少年の前に堤防があったのだろ
うか? とか、結局、船は見えなくて音だけ聞こえた
のだろうか? とか、あるいは「背伸び」が比ゆで
あって「待ち詫びていた」心模様をあらわしている
のだろうかとか、そればかりでなく
この行だけですぐにたとえば週刊新潮の表紙を描い
ていた谷内六郎の絵が浮かんできたりする。詩人で
いえば現代詩作家の荒川洋治がよくこんな多重性の
ある言葉使いしますよね。
わたしには驚きだった。
なんで「背伸びしてみる」なんてことばが出てくる
ものだろうか。なぜ? どうすれば?
じつは最近、それまでまったく書いたことがない短
歌風の短文を書き出したのはこの歌詞に出会ったの
が原因なのですがそれはとりあえず置いておきます。
さて、
わたしにすればこれに匹敵するのは寺山修司の
    マッチ擦するつかのま海に霧ふかし
    身捨つるほどの祖国はありや
くらいのものかといえばちょっと大げさですがそれ
ほどにわたし個人的にはいいとおもった。
下手すると詩の熟練者から「バカいってんじゃねえ。
こんなもの詩じゃねえ。しょせん歌詞だ」と
お叱りをこうむるかもしれない。
正直いうとわたしにも確信があるわけじゃないのです。
しかしなかなか「背伸びしてみる」なんて言葉が冒頭
に書けるものじゃない。そのあとに「海峡を」が続
いて、さらに「汽笛」が「遠ざかる」のですからね。
ちょっと信じられないくらいのことばの《選択》です。
が、振り返って考えてみますといまの詩人はあまり
《選択》と《転換》には力を入れていないような気が
します。
何が詩であるかは書く方々それぞれの主観で決定して
いいものですから「説明文」が詩であるという空気が
生まれればそれは詩であって結構です。もともと文学
は日記のような自己語りから生まれ それが小説に発
展しさらに詩のジャンルが生まれたという文芸研究家
もいますから、(日本の場合はこれがあてはまらない
ような気がしますけど)詩のことばが先祖返りしたと
考えればそれほど不思議でもない。
そういう「説明文」にときに欧米風のリズムをつけ、
なにかわけありな意味(まさに日記的な自己のさまざ
まな陰鬱や苦悩や煩悩や喜怒哀楽、受け売り思想)を
託して書き上げれば詩のようなものが出来上がる。そ
ういうものが非常に多いのですが、ただ、そういうの
は頭の良い人には鍛錬すれば出来るものでしてわたし
のような頭の悪い者にはむつかしい。頭が良くてもわ
たしなら書きませんけど。
そもそも詩とは、集団が集団内の良詩を選ぶ場合はそ
の集団の暗黙の価値観が共有されている詩が選ばれる
ものですから、ただの「説明文」というか「日記が変
形したもの」が現代詩として通用する空気や空間や時
代があってもそれを否定することは出来ないものです。
「説明文」や「日記文」といわれると不快になる方も
おられるでしょうから「小説断片」といったほうが、
揉めないかもしれませんが。

菅原洋一が歌った曲に「知りたくないの」というヒット
作があります。
これはもともと米国の「I Really Don't Want to Know 」
というポピュラーミュージックでした。エルビス・プレ
スリーなんかも歌っていました。
  ”I Really Don’t Want to Know”
  How many arms have held you
  And hated to let you go?
  How many, how many, I wonder
  But I really don’t want to know
ツィッターのAI、Grockに翻訳して貰いますと
  「本当に知りたくない」
  何人の腕があなたを抱きしめ、
  あなたを離すのを嫌がったのだろう?
  何人、何人、と思うけど、
  でも本当に知りたくないんだ。
これをなかにし礼が翻訳作詞したといわれています。
ただ"I Really Don't Want to Know "をそのまま翻訳して
  何も知りたくない
とやっては面白くない。
なかにし礼は、それじゃ英文歌詞の"I Really Don't Want
to Know "の"ほんとう"が出ていないと感じる。
そこで七転八倒するのです。
何ヶ月ものあいだどうすれば英文歌詞の"ほんとう"を日本
語に移すことが出来るか悩む。飯も喉が通らないほど苦し
んで痩せるわけです。
わたしのような凡俗からみれば、曲がいけてるのだから
   あなたのことなど知りたくないの
で歌わせてもいいじゃないかと思うのですがプロはそう思
わない。ある日、喫茶店の二階でウジウジ考えあぐねてい
ると、雨の降る眼下の舗道にあでやかな和服を着た水商売
風の女性がビルから出てきて傘をさす。それをみて突然閃
く。かれは手帳を出すと一気にこう書いた。
   あなたの過去など知りたくないの
この歌はこの年大ヒットしてレコード大賞や歌謡大賞など
各賞を総なめにしたのですが、つまり「言葉の前景化」と
いえばこの出来事もロシアフォルマリズムのいう「前景化」
なんです。ロシアフォルマリズムなんて聞き齧りでよく知
りませんが。名指しできないものを現前化する、それは難
解な隠喩でもなんでもなく言葉の選択と転換にある。その
ことが新しい何かを作り出すのではなく、もともとそこに
あるけど目に見えていないものを表にひきづりだすという
詩の価値のひとつの側面でしょうね。

「過去」などという言葉はもちろんあたりまえ普通のこと
ばです。それが「あなたの」と「知りたくないの」のあい
だに選択されて置かれるとき「転換」が生じる。選択と転
換といいましたが、これは別々のものであるというより言
葉の作用としては剥がすことのできない一対のものでしょ
うね。意図的意識的な言葉のアクロバット性はないのです。
それが生まれた、いや、前景化されたとすれば言葉の選択
と転換になんらかの詩のことばの価値があるからじゃない
かと釈迦に説法ですがわたしは個人的な感想を抱くのです。
現代詩は、とくに最近の現代詩はこの言葉の選択とそれに
よって生じる転換をあまり意識しなくなった。それはもっ
ぱら俳句や短歌に任せてどちらかというと公開日記のよう
な「説明文」ばかりになった。

わたしのこういう考え方をふんまえて、
改めてわたしがなぜ「文学極道」の投稿詩とりわけ大賞の
入賞作をいつもボロクソにけなしていたかを弁明したいの
です。(わたしは一度も月間賞すら入賞したことがなかっ
たから文句をいってるわけじゃないのですが、ひょっとす
るとその恨みもあるかもしれません 笑)
例えば創造大賞受賞作、鴉さんの「Good-bye」
            
  食器は眠れない花
   頭蓋骨にマーガリンを塗りたくる
  蛇が卵を飲み込むように
   卵が蛇を飲み込んでいた
  蚕は毒素のベッド
   弾力のある歯が根を足がわりに輪を作った

Gertrude Stein の詩 "Tender Buttons" (1914)の"Obje
cts"の皿の部門にある詩は食器を「眠らない」存在として
描いているのだけど、それとまったく似たモダニズム詩で、
頭蓋骨、蛇、毒素、眠れない花といった暗黒劇風の言葉が
統合された思想もないまま思いつくままに泡のように浮か
び上がっている。それぞれの行がいかにも意味ありげで、
たとえば「蛇が卵を飲み込むように卵が蛇を飲み込んでい
た」という通俗的な思想はニーチェのようなものを齧って
虚無のような気分をもつこの作者の一過性の文学青年病を
あらわしているのかもしれない。「蚕は毒素のベッド 弾
力のある歯が根を足がわりに輪を作った」なんかはもう意
味不明で多分本人にだけ了解できる世界の一端を表明して
いる。ただ、
そうであってもここから意味を掬うことは読者の自由だか
ら幾らでもそれらしい解釈はできる。おフランスの構造主
義だの現象学だのロシアの形式主義だのフロイトの精神分
析だのその他ラカンだかヤカンだから知らないけど彼の三
界理論とかいう手品の道具を使えば、詩や小説はどのよう
にでも料理して無知な大衆を瞠目させることができます。
でもこの詩は、作者の好みなのでしょうが奇をてらったシ
ュールな言葉で雰囲気を出しているわりには既視感が半
端ではなく、わたしの個人的好みのように名指し出来えぬ
ものを、普通当たり前のことばで選択し、その《選択》と
いう詩人にとって最高の見せ場でなにかを現前化するとい
うようなタイプの詩ではない。
これは詩のことばとしてそれほど価値があるとはいえない
のじゃないかというのがわたしの感想です。
このような詩が文極の「創造大賞」なのですからあとは想
像がつく。

殿堂入りの一条さん 「鴎(かもめ)」

 海には人がいつも溢れている。カモン、カモンと鴎は空
 を飛び交っている。海の青は、カモン、カモンと空の青
 に混ざりこみ、鴎はいまだ完全には混ざりきらない二つ
 の青の間を、行ったり来たり彷徨いながら、新しい青の
 侵入を待っている。ぼくが新しい青になれるなら、その
 可能性があるなら、ぼくは新しい青になって、カモン、
 カモンとあの空と海に混ざりこむだろう。

これもわたしにいわせると「説明文」なんです。「日記」です。
「日記」というのは実は記録じゃなくて、それが生まれたのは
つい最近で非常に近代的なものなんです。自己の内面をだれに
も見られぬところでこそっと吐露する必要があったのです。と
くに日本のような〈空気〉が支配する社会では戦前など隠れて
こっそり自分をガス抜きするため日記が書かれた。だからまさ
に詩の原型ともいえます。「日記」といったからといってバカ
にしているわけじゃない。
読みやすいから日記だ説明文だといってるわけじゃなく誰にも
読めない難解な「説明文」のほうが現代詩には多いかもしれま
せんが選択と転換がなければ同じことです。日記です。
「海には人がいつも溢れている。」という説明。
「カモン、カモンと鴎は空を飛び交っている。」という説明。
「海の青は、カモン、カモンと空の青に混ざりこみ、鴎はいま
だ完全には混ざりきらない二つの青の間を、行ったり来たり彷
徨いながら、新しい青の侵入を待っている。」という説明。
いや、わかるんですよ。長ったらしいけどいわんとすることは。
でも選択と転換の意識があればこんなものは二行で書ける。
外国小説に感化されたような一種の新鮮なリズムはあります。
韻律はまあまあといえるでしょう。しかし
「海には人が」という選択のあとで「いつも溢れている」は
ただの説明です。説明文なんだからこれでいいといえばいいの
でしょう。しょせん自己の内面を吐露する日記であり「小説断
片」ですから選択と転換は必要ない。荒川洋治のように
書けなくなると逃げ込む場所です。
わたしの好みとして「海には人が」のあと「いつも死んでいる」
くらいの転換がほしい。この詩で「いつも死んでいる」が出て
は終わりですから、別のなにか気の効いた言葉がね。笑
この詩にはそんな選択や転換はもともと必要ないのですがね。
日記ですから。
青年の清冽な感情は陳述されているのだけど名指し出来えぬも
のへの眼差しとその現前化はない。これがないとわたしにはど
うも読む気が起こらないのです。つまりここでも言葉の選択と
それに必ずともなう転換がない。リズムや比ゆのようなものを
評価するとしても要するにあまり詩の言葉とし
て価値があるとはおもえない。
それが詩の現在だといえばそれに対してことばないですけど。
たった一言「過去」という言葉だけに数ヶ月も悶々とする作詞
家の格闘する真剣さ(裏を返せば文学への面白さ)があまり感
じられない。入沢康夫でも吉岡実でも難解なことばのわりに心
を掴んだ。説明文じゃなかったから。
そういう意味では文学極道では例外的に田中宏輔さんのは感覚
的な一種の違和感覚で人をとらえていた。かれの詩は感覚に根
ざすものなので批評の棚にはのせにくいのだけど、
(批評したところで無理筋になるだけです)
それ以外はなんというか
あの、こんなことをいうとまたお叱りを受けるでしょうけど文
学極道というのは「中二病」の作文の寄せ集めとしか映らなか
ったですね。「中二病」とは何か。それを説明しはじめるとま
た大変なのですが要するに彼らは大人になりきれなくて「詩壇
ママゴト」をやっていただけなのです。成長した大人の精神が
あれば「ママゴト」はやらない。才能とか技術関係ないのです。
わたしがそんな気持ちでいたからど反発をくらって嫌われたの
でしょうけど、文学極道へのこの見方は今も変わらないです。
残念ながら「厨二病」の寄せ集めでした。それは文学極道とい
う小さな寄り合いの宇宙でのみ成立する大賞であり創造大賞で
あり実存大賞であり抒情大賞、レッサー賞だったわけです。
これは「中二」病のかれらの思春期を励ましたかもしれません
が罪なものでした。だってほとんどの人が大賞や特別賞など
を貰って本気で「おれには才能があるんだ」と勘違いしてしま
った。これは悲惨ですよ。これを信じてしまったらもう「ママ
ゴト」の外には出られない。ある特定の狭い空間でのみ大家の
ように振る舞うひとつの劇が延々と繰り返される。
悲劇ですよ。
そんな「ほんとうのこと」をいうからヒステリぃー婆さんから
「罵倒家」などとブログで罵られていたのでしょうけど。
そりゃあ一人や二人スケベ爺の鼻を伸ばさせて詩壇にレビュー
した女性詩人もいましたけどね、そういうこともありますよ。
でも彼女らの詩は一種の芸能詩でして、非難するほどのことも
ないのです。かってにやればよろしい。読んでもそれほど不快
でもない程度です。笑
人間的に成長したダーザインさん、もし生きていたら姿を現し
てほしい。そして、
いまだにそういうものにこだわり続けるのではなく、そろそろ
そういう「ママゴト」を全否定して洗いざらしの雲みたいに自
在に青空に浮かんでもいいのではないかと皆に伝えてほしいで
すね。


散文(批評随筆小説等) 「文学極道」への弔辞(再校正済み編) Copyright 室町 礼 2025-08-28 06:11:56
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