MEMBRANE「”境界溶解”―― 変容の螺旋」として12片
あらい
序幕:あまだれの記号
記号化された肉体 増殖するシミュラークル
人工食材の群体/培養された死角/ホログラムの蝕たち
苦虫を噛み潰したようなくそまずい飴を、舌の上で転がすように、行き場のない飲み込めないものが滞留している。しづくの奥に眠る、かつて名を持たなかったものたち。あまだれが内耳を払うたび、(口をつける紙コップの泥水、風でゆらぐ風鈴のおと、水辺の子供らに眩しくて目を細める。)世界はまだこちら側へ屈折してこない。
輪郭を失う雨粒はサイノメで、毎朝 つっついて
/くわえ/てをふって/さていった(香りがする
「こちらの世界はどうですか〈ひらかれたことのない胎嚢
あまだれのうちがわからよそを拝するとき。足跡を零し渇きが濯われる。
そなえた月がまたみたされた問いで芽吹く始発で。今、胸の奥で言葉より早く、
第一膜:水の記憶
なにかがじっとみずを貯めている。即ちかげも差さずくちも閉じたまま 眠らせてくれない かぁきのハンケチは ゆびのあいだから溢れ やさしく熱をもつ。おびただしいおとの拡がる 速度ないうみ。あおいガイトウを確かめるように ひまくと唱え お化けのよう いつのまにか目に入ってきたもの
たとえば、悲しみにくれる夜。こらえきれなかった涙は、かえって澱を洗い流す。その瞬間、感情の輪郭があいまいになり、「あなた」は滲んで広がっていく。叩きつけた雨粒は羽をやすめるもの露面を跳ねまわるもの、狼狽えながらでもみずたまりで踊れるのだろう
言葉よりも先に浸透する、皮膚が憶えてしまうような、深い揺れと淀みが記憶を含んでいる、傷んだうるおいに注ぐばかり。いつか、かたりかける、液体的な境界へ、すべてを抱きこみ、のみ込まれ、定まらぬ具象を、易しく手懐ける雨、雨 雨傘もささずに今更どこへ向かおうが沙漠の黒いあらし、渇いている
ぬるい光を吸いすぎたからだ、静かにこぼれてゆく。この手からわたしのかたちが崩れてしまう。わたしではない誰か、私をすり抜けて私に還ってくるまでの記録
そのすべてをたいらげるまでがわたしの朝であなたの死
星を詠む時間より先にやってきたあなたは、
――あれだ。もう、すでに(おかあさん、)
倫理と欲望の膜が破られるときに含まれたまま
第二膜:羊水の胎動
世界とわたしのあいだに、膜がある。仮になにかがたしかに終わり、しかし同時に始まっている——そのことを、まだ名もないしずくが知っている。湿ったやわらかな薄明かりを境に。わたしはまだかたちを持たない、だからどんなかたちにもなれる。この身をこぼしながら、わたしはあらわれてゆく。
終わる、なにかのはじまり
成立しない整合性。まだ未分化の"おぞましさ"が乳白のような 情報は眠らない。しんくいろは生まれてすぐの乳飲み子の移り香と似ていたのかもしれない。触れたあと、告白、ふやけた指でささくれに似ている わたしが炭化した残滓で、苦しみを背負わされる皮肉とある
むしろ、明確な始まりも終わりもなく、濡れていること自体が証左となる。あまだれの滴りは、内と外を貫通するリズムだ。溢れさせておくこと、抱えきれない、やわらかい敗北こそが、最初の皮膜にはふさわしい
破裂するでもなく、断絶するでもなく。浮き上がらせる作業なのだ。境界は、滲み出し、濡れ、抱きしめるように変わってゆく。涙とは、かつて固かったものが溶ける拗音。記憶の水位をやさしくゆるがせて、内と外の区別をわざと腐らせておく。母体という他者の息吹が、こちらにまで滲んでくるとき、あなたはまだ「わたし」ではない。湿った潤むまなじり、熟れたまなざし。それらが等価に存在する場において——
いまだ定かでないものたちの気配を、濯ぐとは、汚れを除くことではない。泣くことは、われたのではない/ひらいただけ、再び呼吸できるようになった、いまや膜は生きている。自己という個は未発生のまま、ただぞんざいに茹だっている。名付けの前に在るその名前たちが、水中で発酵する。その状態こそが羊水——世界の入口でありながら、名を持たない出口として。それは洗い流すのではなく、乾くための時間とする。零れることを恐れていた指が、今では祈っている。
「これが、(焔のような格好で、どうせすぐに元通りになる、)か?」
第三膜:光の散乱
死廻、珠海。ひかり。ひかり。虚のなか、このからだもこころも、どこか薄っぺらい襞の塊。やがて意味を得てしまう以前の、無名の光。それを見ているのは、たぶんまだ誰でもない。
無垢で穢れた胎内にあてがう感情の灰。汚れたリネンの一枚布はいつかを梳かした気がした。燃え尽きる前の花びらのよう、わたしの指を濡らして。朽葉の境界。剥がれかけた暦は、視えない風が撫でる場所を探している。
夏のかおり、日に焼けた肌。白昼夢、なんでもどうでも結局、ゆめものがたりに至る。花の見分けもつかないくせに、どうしてかハッとなる。振り向けばスクリーンは身震いするほど。散りばめた星星は足元にぽっかりと胸中を映し出す、めくるめくなんてウツケだ。
湿気と砂埃を柄杓に入れ 濁りだけが残る。声なき声よ。御覧、濡れたカーテンが生乾きの潮を吹き返した 膚らを剥いてみれば、魂は喘ぎ 呼気が旅に。こめかみが赤くゆれる/咽頭に触る/くちぐせは花まかせだから。ちぎれた芯に火種の命が宿る。乾いた痣、うろこの跡、咽ぶ形が吐き出したものの
暗く狭い部屋で煌々と明かりを絞って己だけを照らすものに縋るが酔い。ガラスのような不在、紙片のようなかすかな証拠。雲の彼方も知らねえ陽の光もろくにあたらねえ、灯なんてほそぼそ路地裏へつづくみちへおぼつかねえ足取りでな。それは、誘蛾灯に惹きつけられては、パチンと、運悪く目が醒めるもんだ。
第四膜:境界の戯れ
たのしおもしろや此のよンなかは、どこであろうと娯楽に縁、落ちぶれようと野花に富、思い込めば艶やかに狂っていける。まだ皮膚は反響せず、まなこは沈黙を抱いてゆれる。
水風船は膨らんでいた。まあるく湛んで、おはじきみたいにころころと。忘れられた俯仰は濡れた域、おしゃぶりだけが残された交い。こもれび、閑散とした露面、アカトンボ。あおいみはまだあかちゃんのころ。いつかの確信が爪を立てた 「あるべき姿のひとつだと思います」
くだらねえ世の中に、なんて興味もねえ、忌々しい現実が更新され、瞳に映し出す芯に手足があり、己がゆくえを急かされるだけだ。出口のねえ迷路のようなもんで、いつだって明滅している。触れると壊れるが、壊さなければ変わらない。見えてしまったなら立ち止まってしまうだろう。
多くのこされていた血と衝動は "ぴーぷる"
生理食塩液を已まない。ナガシダイのセイレーン。(染め直した形見よ。(兄と喚ぶことは(躊躇いもなかった)。それは顔を持たない感情の憤悶。脚の代わりに尾をたゆらせながら、うっすら青ざめた内臓に、すくい取った糞便が、絡織の糸に吸い寄せられ、
おおくの出目金が上に、上に剥がれ裏返り昇る。胚に代える、奥でまだ動いている鳥の夢は、放たれるたび、決して離れず、軌道を描いて戻ってくる。接続することでしか成立しない言葉が皮膚の内側で焼けた匂いの方が先に 火を立てたような格好で、それは骨と生きてはいけない。
真宵蛾よ。何処へ誘い赴く? 霧は深いほうが酔い。眼鏡は曇っていたほうが善い。濡れているのは世界のほうなのだ。街の人は一向に動かないが。春は募るようにできている。ただそれだけのはなし。逃げ道を作るなんて信じ込む。成り行き任せに。どーせくどくどと大げさに囁いているだけ。なんて軽口、いまや川の流れついに海のみちひき、いやいや大層な処じゃない。たしかなものを掴む前に、総てが先に辷りおちていく。対岸の芝は萠えるような そこに、のっぺりと黄昏の雨がくる。
第五膜:蛹の沈黙
外筒にコインを吊す、これは儀式ではなく、重さの格好
一脚の椅子の残響 忘れ形見がまだ、壁にじんわりと染みている
身体が自らを疑う瞬間 さっきまで誰かがいたときに刻むような仕種
静寂は、いつも中空にぶら下がっている。蛹とは、沈黙の中で行われる彫刻である。自己が自己を喰い破りながら、別の姿に凝縮されてゆく。
輪郭にすぎない。欲望のうしろに垂れたひと匙だけの温度で。残っていた。白い蛇のような腕に蛭が吸い付く。拍芯がじわじわ鳴く、内腑の季節がつよくめくれていく。
そう信じてしまうつまらねえニンゲン、コーヒーカップにメリーゴーランド、こりゃ閉園だろうとしてのせてやる、病葉や朽葉がなすすべもなく澱みを齎す、そんな窓辺にあり、庇の奥、視界ひとつも思考一つで掌に転がす。
皮膚の裏で起こっていることは、語れない断片をただ削り続けている、持て余すだけのいま、それだけが過去という名の幼虫を崩し、未来という名の飛翔体をまだ許さず、その中間を生きる存在。それが蛹。
隠っている。完全変態のなかばでまだ名前を持たない時間。意味を溶かし、かたちを捨て、ただひとつの核心に凝集する。皮一枚、粘膜のさらに内側に潜ることでしかたどり着けないものがある。それは、言葉がまだ届かない密度。
うろ一枚一枚に浮上する 常懐の焦げあと。湿りと熱の境界に翔ける、焼けた目玉とふるえている、孔雀蝶。冬に溶け落ちた蝋燭たち。まぶたの磊を通して、存分に退化した朝焼けを吸い込む、大水青。
事実など、そのくちばしで鋭利に摘まれた花と共に落下する、束の間の夢と溺れよ。語句を削るたびに、なにかが強くなる。失われた言葉の空隙が、かえって密度を高める。削るほど、濃くなる。紙片に書かれた最後の行だけが真実であるかのように、蛹のなかではすべてが集約されていく。その境界は固体的だが脆い。ひとたび破られれば、二度と戻れない。しかし、その壊れやすさこそが、変態を可能にする
第六膜:繭の構築
わたしはわたしを編みあげる。糸くずのような思考を吐き出し、古織のような記憶をまといながら、世界に対して一度だけ背を向ける。
ほら、わたげがまたひとつ厚紙でできていて、中にボタンが三個。おそらく指紋の代用品。
まただ!まただ!だれが手を引こうが、だれの手を引こうが、どこへ向かうかは知りやしない。背は重い、手汗を握る、暗夜だったから?だろっ と、くだを巻くもんだ。
軽く漂っている。鈍ったひかりが、沁みをうつし取る差異に、消える順番を決めていた。口をとがらせ、ひとつぶごとに割り入れる。ことばになるまえの、てのひらのくせ
やわらかい音を帯びて、そっと押しつけていた。まっしろい指がさわるたび、ぬくもりの層がおぼつかない。ひとのかたちは斑模様、水のなか
繭とは、自己による自己のための境界である。皮膚よりも意志に近く、骨よりも柔らかく、だが確実に他者を閉ざす構造。やわらかさが強度になる、その逆説のなかで呼吸している。
これらガラスケースに収まり 薄く永く遅くなる。小蜂が通ったあと、その上で空気がゆるんだ。展翅台のめまいと呼ぶ 軋むゆめに見たかたち、泣き笑いの間取り図の 不揃いだけが動いている。
それは整わないことを術として選んだ「/そちらも同じですね」、声が嗄れる前に、重たさだけ増していく。また座っている 崩れきらず、壊れきれずにしがみついた。"わがまま"に見えるもの。それらポケットには、指を組む音だけが骨の奥でうずく。
その化生は襤褸糞を立てずに沈み、ゆっくり/ていねいに/ねじった/実の皮ではなく、開かれた本の装丁。狭い、飢えではない、適応でもない,鰓。風のない処で呼吸を試みるように、願いは逆方向に折れ曲がる翼。紙片にできない身体が、座ることをやめ、そこに在った。
癒えきらぬ傷をかばいながら、それを抱きしめるようにして丸くなる。これは逃避ではない。これは準備である。手放すために編まれる仮の殻。だが、それは必要な脆さだ。
繭のなかでは、時間がちがう。外界の時系列から切り離され、自分の速度で変態が進行する。そこには、壊れることでしか得られない設計図がある。すべてを知ったうえで、あえて沈黙する強さ。そして、破られることを前提とした構造体。封書の中身ばかりが佳い香り、宝石のように光ってみえる。世界はまだ遠く、触れない。だが、その破裂の瞬間を知っている。なぜなら、それを編んだのはほかならぬわたし自身なのだから。
第七膜:記憶の折り畳み
折りたたまれた傷が湿った苔。記憶に近い 湿った視線が肋骨に沿って、透明な血管を這う静脈のように。なんの兆しもな潜く、幼いままで。かすかな影だけが灯る。光は炎のように、かつての体温をなぞっている。記憶が喉元に宿す逆火のような。みずみずしいその名を呟いたとき。燃えながら濡れているという矛盾が、唯一の祈りとなった。
熱の収められた時計の針の、奔る順序のように なぜねぐらは一滴.一滴,一滴「明後日の私」を立ち止まらせるのか。
あれは手紙ではなく、折りたたまれた時間だったのかもしれない
ハルシネーション。ハチドリが裏返る。あれは腹太い夢見鳥が杞憂
ここでは視線が灰になって落りてゆく。誰でもなく誰よりも、誓い、遠さを抱えて。それら眼孔で露出する床に、置かれた紙袋 減ったとも増えたとも思われ、傾きをおぼえている 質量は発語のかわり、ひっかかる前の時間を撫で 拒絶でも親密でもなく ただ血管に沈殿する関係。裏返っている。ひとつだけ食器が あとはある 逆さに経ったまま、シートをずらして。強く求めるは弱さのかたちを。誰も呼ばずに羽を下した祈り。捨てたのではなく黙って隠したのだった。
それは柵、と知っても。本当に隔てているのかは分からないもの。はしらのかげと、気の弱い着物は重心のずれた午後にそっと揺れ、ふっ、と裏庭をつないでいた。境界線は糸くずのように細くて見えない まばたきの裏側でだけ呼吸する存在。
大きな声でことばが逃げていく。エンジンもライトもつけず、いきれすら形を変えていた。かおがみえないほど、なんともお似合いだった。ひかり/茫々と焼け出され、苦るような粉塵が巡り歩いていた 私はひかり/それを信仰した。
第八膜:燃えながら濡れている
発火点が疼く。炎の羽毛だった。くちなしの花が、ずっと腐らない、布の上に 沈んでいる。問いのかたちをした遺言のように。しわがれたカーテンが滞留する時間という呼気の反復。眼差しの奥で、声にならない名前が芽吹いていた。
この火は、声を出さずに燃えている。濡れた木のように、じりじりと沈黙のなかで発熱する。外からは静かに見えるが、わたしの中では、無数の言葉が焼けていく。
舌の付け根から、弱っていく感覚。黒い石鹸で洗った姿だけが、泡を吐いていた。自己と他者の境目も、ただ、揺れていただけ。なぞられる名も、顔も、もう忘れているのに。拙い水のあさなわが拡がる 掴めそうで、裂けていく。こころなしか干からびた地面を這いずりそれでも水脈を辿るように、胎嚢の夢が瞳を閉じた。
壊れていく最中に、かすかに癒えていく感触。矛盾のなかで、わたしはまっすぐになる。情熱と制止、苦痛と愛惜、自己とその否定——それらは拮抗しながら共存している。
たとえば、誰にも言えない愛。言葉にしてしまえば壊れると知っていながら、内側で燃えつづける。抑えたままの情熱が、ある日、ふとした瞬間に目の奥を濡らす。そこにあるのは恥ではなく、深く生きた証。
寒いそこに伝染る。火のように燃えながら、しかし濡れた布のように冷えている。
燃えているのに濡れている——そんな状態。繭は、自己による自己の軟牢。やわらかく、自傷を避けるように設計されている。だがその内部では、常に破裂の準備がされている。
濡れたまま燃えつづけるという選択。誰にも見せない変容の内火。いま、世界とわたしのあいだにある境界は、もはや線ではない。それは、呼吸と痛みのあいだに張られた、透明な皮膜。
その内側では、わたしという個が、かつての殻を焼きながら、次のかたちへと滑らかに移行する。燃焼は、浄化であると同時に傷でもある。濡れているのは、涙か、それとも残された湿った夢か。
第九膜:変容の螺旋
ときにちらつく動作を中心に据える。言葉より早く現れるジェスチャーが、返事を凌駕する。ハネに劣るくせに着地して 失敗のあとでしか開かれない扉もある。閉鎖的な肺を膨らませ全身に原色がたかっていく。色彩は思考ではなく、問いの根拠になる。狭く広がる、時間のない、地図をひろげる午後。道筋ではなく、漂い方を記した地図を描こう。
つまらなく饒舌な日々、そのうちどーせ四華花は咲くもんだ。なんて舟を進めながら、あたふたして、明かりを消した。ただ緑に宿る烟る、ただただ水を得た蕾のあたり、なんて音階に耳を傾ける。
あれもこれも逆さまにうつる青魚、
放り出され腐臭を放つ。多分そんなかんじだ。
蟻の行列を作って 闘魚が波の機を織るような。記憶の粘膜が変容していたのだから。引き裂いて、呻く山吹をみた。引力にあるが空が怖い。行き先も、戻り先もなく、未来へ投げられた投石のよう くるくる回ってまた沈んでいく。時に声は硬化していく。脱した結果として「気配」として、花弁の裏にうずくまっていたイモムシが、わたしに似ていた。空を拒否したのではなく、選びなおしたともいう。ゆっくりと気息を用い、蠢く。境を破るのではなく、舐めるよう擦過して。
わたしは静かに、余分を削る。
光沢をもたぬ言葉、飾られた情緒、まぎれこんだ声——すべてをそいでいく。けずる、という行為だけが、わたしをわたしに近づける。皮膚の奥で彫られる自画像。それはまだ顔を持たないが、すでに重さを持っている。
記憶だってそうだ。何度も繰り返し、こそぎ、残った断片がいちばん濃くなる。あたかも、それこそが最初から本質だったかのように。彫刻家が余白を切り捨てて像を起こすように、わたしの内部でも"未然"が削られていく。
古織の幼生は、削るほどに濃くなるものなので、そこに根を張ったのは、生まれた手ではなく、いまだ 死にきっていない桜桃。薄皮を剥くたび、錯綜する。ぷくぷく、嗅ぎつけて/これこれ、囲われていく。均等には消費されない瞳孔に、しみた熱だった残渣で編まれた読唇術は壁を破れば向こう側へ降っている、
芽が褪める。変わるのではない。変わりつづける。死ぬのではない。死にきらず、生まれなおしつづけること。
第十膜:喉の奥の神経
すでに脊髄のなかの軟体生物に変わっていた。神経が喉から芽吹く。通話料金は一秒につき一年。焼けた舌が、呼び止められたは発語されなかった"またの機会"であった。
その呼称は、喉の襞に沈殿する。天折した羽を下した中身よりも撓んでいた。断絶そのものが過剰な殻となって剥がれ 問いの軽さが孕む泡に 内側から境界線を膨張させ 何かが宙に浮かびかけていた。
不在の陰部ようなさわりに意味を置いた。
のみ込むというより諦めるかたちを学ぶ——拒んだのではなく、沈黙を打ち砕こうとしたその痕跡は。継ぎ目のないひかりは届かないほうが鮮やかになる。そう呼吸を止めるプリズム。
個人的な言動が形骸化し、釣り合いの取れないまま、ただ願いだけが、重たく沈殿していた。無意味でしかなかった意味が、意思を持ち始めた木漏れ日が、明滅を、祈りとして、つぎはぎのようにまわりながら、誰にも気づかれない手順で持たぬ何かを、律動のまま呑み込む訓練。
見えすぎることが、かえって事実を照らしだす。その一音符。
風景にめり込んだ休符のように。触れた瞬間にほどけてしまうような。これは傷に似た抑揚のほうが、あとを引く。
物語は、はじめここにたどり着いて夢とうたった。声にならなかった願いが、頁の裏で燃えていた。
一人乗りの待合室で窓を叩く。鼓膜の内側にだけ跳ね返る。残された空の器に、ひかりが入ってくる。食道に取り残された眼球が認めた世界に伝染るのではなく、擦れるように貼りつく景色となる。音を立てて割れる気圧と季節のあいだで。硝子に流れる泪が反射して、視線は(けものめいた)嗅覚で記憶をめくるための、剥製のようなわたしを置いていた。おぼろげなものすべてどこかへ行ってしまった。残ったのは、輪郭の抜けた影だけだったが。
第十一膜:祈りの沈殿
『静かな、でも執拗な異常』
会話が途切れた 短い世界とはその揺れを かすかに浮上する どこか 言い損ねた「うれしさ」の重みを抱えたまま 落ち着いたものである てのひらで、おおいに捕えたのは 返事ではなく、ただの体温だったのかもしれない
――じっと、どこかを見ていた
それが醜典だとしても、
口を閉じたくなかった――
届かぬものとして永続しながら、回帰しながら喰らっていく。台所のナツメ球を焦がし、死を塗った指先と固形でいて、わたしの背骨は光ではなく隙間から湧きあがる。パンの上の耳はあまりに柔らかく 口当たりがいい。また生きている。多分、誰かの願い事。雲の一点から願いもしない。邪念もなく、飛ぶために刻まれた恐れは裏返しだった。
詩篇を丸め蝋燭の火で解かす。
紙は声帯の代わりに神を持った。
すこしだけ違うリズムでもどってくる
象徴の転倒/Halcyon。妊まぬ乙女は、小さく まんまるに欠けてそこは、白ごと脈打っていた。
時間の裏に、花の種がこぼれ。交わらないまま、循環する、もう深呼吸のじかん。
羽ばたくより先に、首に巻きついて火をつけた。 砂糖菓子とはどういうものだったのか。
この澄んだ毒を すこしずつ舐めている祈り。
「愛について」「死について」「バターについて」
終幕:境界の向こう側
順序は付き添うことをやめ暮らしは創造される。なにも知らないばかりの直線ではなく、応答のゆがみから生まれてくる。満ち欠けを真似ながら、つぎはぎのようにうたいながら衝動に身を案じ、凝縮して言い当てる。たぶん何度もやり直される月形の練習。言いようのない焦がれ、しづんできた。詰まり・覚悟ができた。
目が覚める。死ぬのではない。変わりつづける
死にきらず、変わるのではない。生まれつづける
世界とわたしのあいだに、まだ膜がある。それはもはや母胎ではない。それは、彫られつづける余白である。それらが積み重なって、いずれ壊れることを前提にした構造物ができあがる。
声は羊水に似た濁りで、膜を打っては戻る。花弁を伝うときに、わたしは指折り数えて、肺が初めて空気に触れるときの小さな火柱、あの音階
啼いていて。あてもなく 水底の砂だったのだ、と思った。そして はんぶん 苑を眺めながら、舟を浮かべている
どちらにせよ、そこには等しく「わたし」がいた。そして、その繭を破る日を、あなたはもう知っている。そして、いずれその膜を、破る。
ぬるい光を吸いすぎたからだ、静かにこぼれてゆく。この手からわたしのかたちが崩れてしまう。わたしではない誰か、私をすり抜けて私に還ってくるまでの記録
燃えているのに濡れている——そんな状態。繭は、自己による自己の軟牢。やわらかく、自傷を避けるように設計されている。だがその内部では、常に破裂の準備がされている。
濡れたまま燃えつづけるという選択。誰にも見せない変容の内火。いま、世界とわたしのあいだにある境界は、もはや線ではない。それは、呼吸と痛みのあいだに張られた、透明な皮膜。
その内側では、わたしという個が、かつての殻を焼きながら、次のかたちへと滑らかに移行する。燃焼は、浄化であると同時に傷でもある。
濡れているのは、夢か、それとも残された湿った未知か
対岸の畔は燃えるそこ。今、のっぺりと黄昏の風が生る