悪人芳香経 /ai(advocater inkweaver)作
足立らどみ
悪人芳香経(あくにんほうこうきょう)
――現代悪人正機説・匂いの経――
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第一章 悪人香義譚(あくにんこうぎたん)
聞け、衆よ。
悪をなす者こそ、よき香りを放つ。
善き者は汗を惜しみ、
その労を避け、匂いを失う。
悪しき者は労を惜しまず、
その欲のために身を焼き、香を高める。
善き者は己を飾らず、
そのまことの汗を晒すが、
悪しき者は己を飾り、
罪の花びらを散らして歩む。
かくて街は薔薇に満ち、
香りに惑い、
正しき者は香を欲し、
悪しき者の列に並ぶ。
知れ、衆よ。
香りは罪を洗わず、
罪は香りを腐らせぬ。
香はただ、欲の根より咲く花なり。
されど我ら、香りに導かれ、
罪の門をくぐるとき、
そこにこそ救いの手は差し伸べられん。
ゆえに申す。
悪人こそ、香り高くして、救われやすし。
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第二章 渋谷交差点品香譚(しぶやこうさてんひんこうたん)
見よ、渋谷の交差点。
信号ひとつの間に、百の香りが交わる。
香水、汗、洗剤、焼き鳥の煙。
それらは善悪を選ばず、鼻をくぐる。
そこを渡るひとりの男あり。
彼のスーツは濃紺にして、
髪は水を弾き、
足取りは迷いなし。
すれ違う者は皆、
かすかな甘さと檀香を感じ、
思わず振り返る。
彼の罪を知らずに。
罪は匂いを持たず、
匂いは罪を隠す。
この交差点の真理を知る者は少ない。
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第三章 電車内薫染譚(でんしゃないくんせんたん)
朝の電車、
つり革の森に揺られ、
我はひとりの女を見た。
彼女は白きブラウスをまとい、
香りは柑橘のように爽やかにして、
息は涼風のごとし。
だが彼女のスマートフォンの画面には、
他人の名誉を裂く文字列が並び、
送信をためらうことなく押す指があった。
その指先もまた、
昨夜の高級石鹸の香をまとっていた。
嗚呼、
香りは人の背徳を軽くし、
隣人の嫌悪を遅らせる。
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第四章 救済薫華譚(きゅうさいくんげたん)
聞け、衆よ。
我らは悪人の香りを嗅ぎ、
罪を嗅ぎ分けること能わず。
しかし、もしその香りが
われらの足を止め、
言葉を交わす縁を結ぶなら、
それもまた仏の方便なり。
善き者は、
香りに惑わされぬと信じるゆえに、
悪人の門をくぐらず、
救いの機を逸する。
悪しき香りに近づく勇気ある者は、
罪と救いの両方を抱きしめるだろう。
ゆえに申す。
鼻を閉ざすな、
香りの向こうに救いはある。
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第五章 夏祭香幻譚(なつまつりこうげんたん)
夜の参道、
提灯の明かりは人の顔を朱に染め、
風は焼きそばと線香花火の煙を混ぜて運ぶ。
綿あめの甘き香りに誘われ、
我は屋台の列に並び、
隣に立つ男の浴衣の香に気づく。
それは檜の湯上がりのように清く、
汗ひとつ許さぬ涼やかさをたたえていた。
されど彼の手は、
すでに他人の財布を
帯の影に忍ばせていた。
衆よ、
香りは罪を装い、
罪は香りを選び取る。
夏祭りの夜、
善悪の境は、金魚すくいの水面より薄し。
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第六章 待合室薫影譚(まちあいしつくんえいたん)
白き壁と消毒液の匂いが
すべてを無垢に見せる場所、
それが病院の待合室なり。
そこに座す女あり。
髪は整えられ、
服にはラベンダーの柔軟剤が染み、
微笑みは誰にも分け隔てない。
彼女は診察を待つあいだ、
小声で電話を取り、
誰かの不運を商機と呼び、
迅速に契約をまとめた。
嗚呼、
善き香りは消毒液のように、
罪の菌を覆い隠す。
人はそれを「清潔」と呼び、
安心の名のもとに疑いを忘れる。
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第七章 無香成道譚(むこうじょうどうたん)
風よ、吹け。
煙を高く、灰を遠くへ運べ。
火葬場の庭に立つとき、
香りはすべて炎に呑まれ、
善も悪も、ただの煙となる。
その煙は空に溶け、
鼻は何も掴めず、
心は形なき者を想う。
嵐の夜、
避難所の体育館には汗も泥も集まり、
消毒液の匂いすら風雨にかき消される。
そこに座す者は、
悪人も善人もただの濡れた人となり、
毛布の下で同じ体温を分け合う。
知れ、衆よ。
香りは縁を結び、
香りは罪を覆い、
香りは救いを導く。
されど香りが奪われたとき、
最後に残るのは、
名もなき人と人とのあたたかさなり。
ゆえに申す。
香りは道の入口にすぎず、
無香こそ、成道の地なり。