問わず語り(4)
降墨睨白島(furusumi geihakutou)
ポール・ヴェルレーヌの「秋の日の ヰ゛オロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し」(上田敏訳)や、「巷に雨の降るごとく われの心に涙ふる。かくも心ににじみ入る この悲しみは何やらん?」(掘口大學訳)という詩句を紹介して『ヴェルレーヌの詩は、日本人の心にすっと入ってくる親しさを持っている』と書いてる人がいた。
また「『あはれ』が美学の根底にある日本的な感性は、『悲しみ』が通奏低音として流れるヴェルレーヌの詩句の美しさを、そのまま受け入れることができるのかもしれない」とも書いていたが、果たしてそうだろうか。
ヴェルレーヌに見られる『あはれ』については私は上田敏の力が非常に大きいと思う。また、上記の筆者はヴェルレーヌが詩法としてその第一に『音楽』としていると書き、それに結びつけるために通奏低音など引っ張り出して来たのではないか。
実施、ヴェルレーヌの『音楽』、私は『リズム』だと思うけれど、ソノ辺りに触れるにはフランス語がよほど達者でなければならないと思う。その伝でいくと、私はおいそれとヴェルレーヌは語れない。
ただし、上田敏については大いに語るべきだと思う。日本ファーストとかではないけど。