聞こえない風の音が、永遠に鳴り続けてて
由比良 倖
(以下の、小説とも言えない散文は、先月以前に書いたもので、考えも文章も全く練られていません。今日、大幅に推敲はしたのですが、本当に書きたいのはこの続きです。今月になって、僕は随分変わったと思います。おそらくはとてもいい方に。これからもどんどん変わっていくと思います。もっとカラフルな音のする言葉を書きたいです。タイトルも長ったらしいので、いいのが思い付いたら換えるつもりです。)
*
あなたに、青い墓地をあげよう、と墓守は言った。
棺桶の底では、あなたは全くの自由だ。何も聞こえず、何も見えない、
けれど全てが、全ての世界がその中にはある。温かみも、愛情も、創造も。みんな。
夜はいつでも傍にいる。足元には温かな空虚、そして手の中には、遠い花畑が。
1
僕が学校を休んで前の日から徹夜で昼前までゲームをしていると(やめるタイミングを計る頭の中のスイッチが壊れてしまったのだ)、部屋に入ってきた姉が、ベッドに座って、手に持った袋のスナック菓子を食べながら、唐突に、
「あなたは正直者ね」
と言った。
僕はいい加減眼が疲れてきたし、寝不足で、楽しいのか、ただ惰性でボタンを連打しているだけなのか、分からなくなってきたので、すぐにゲームとディスプレイの電源を切ってから、立ち上がって、水の入ったペットボトルを持って、姉の脇を抜けてベッドに寝転んだ。水を一口飲んで、
「ねえ紗々(僕は姉を名前で呼ぶ)ネガティブな話の流れだったらやめてよ」
と言った。姉は「私は説教は嫌いなのです」と言って、僕の水のボトルに手を伸ばしたので、僕は立ち上がって、クローゼットから新しい1リットルのエビアンを出して、「新しいのがちゃんとあるから」と言うと、紗々は、
「古いのがいい。1リットルも飲めない」
と言って、ベッドの上の飲みかけのペットボトルを取って、すぐにキャップを開けて飲んだ。
僕は足元側からベッドに上がり込んで、上半身を曲げて姉の顔を見上げた。姉は僕をよく通る道で会った見慣れた動物でも見るみたいに「この子、いつもここにいるけれど、意思疎通は図れるのかしら」と言ったような顔をしていた。僕が、
「真水にはあっという間に雑菌が繁殖するって言うし、これ、開けたの昨日だよ? 僕は別にお腹壊しても構わないけれど」
と言うと、
「そうねえ。姉弟だから大丈夫よ。……敢えて付け加えると、『大丈夫』って言うのは、あなたとの間接キスで身体を壊した方がいいってこと。健康なんかよりずっといい。そう言う意味で、『大丈夫』なの。となると『姉弟だから』と言うのは、意味を為さないわね。別に姉弟じゃなくても、私はあなたが好きなのだから」
紗々が僕の口にポテトチップスを一片入れようとしたので、僕はそれを避ける形で、身体をまっすぐに伸ばして、右手を頭の下に敷いた体制を取った。そのまま頭だけ横へ向けると、彼女の手首の辺りに、カーテンから漏れた光が差していた。姉は僕の同級生の誰よりも綺麗な肌をしている(前に彼女に、肌のことについて褒めると、彼女は「要はイメージなのよ」と分かるような分からないような返答をした)。見ていると、彼女は急に手を引っ込めたので、僕は目を天井に向けた。彼女はポケットから煙草の箱を出して、「あー、そろそろ買いに行かなくちゃ」と言って、僕に向かって、ねえ暁世(あきせ。この名前は姉が発音すると綺麗に聞こえる)も吸う? と訊いた。「紗々が吸ったことにしてくれるなら」と言って、僕は一本もらった。マールボロのライトだ。
「何て言うのかな」
と言って姉は話し始めた。姉は多分、僕しか話し相手がいないので、話し始めると長いのだけれど、僕は姉の声も、しゃべり方も、それから話が佳境に入ったときの意気込み方も、好きだ。
「ああ、正直者の話だったね。正直者は馬鹿じゃないよ。正直者は正直者だよ。正しいひと達だよ」
と律儀に前置きをしてから、エビアンをまた一口飲んで、それから指先を唇で舐め、一度だけ、微かな溜め息を吐いた。
「例えば、私が何かを始めるとする。例えば、そろそろ本気で何か手に職を付けなきゃ、自殺するしかないぜ、ってね。例えば、三十歳までに、うーん、人間関係が面倒ならプログラマーだとか、外で働くなら行政書士だとか、難しいのだと司法書士とか、何でもいいや、何かね、本屋に行って、ぱらぱらと見て、これは難しそうだな、と思ったら、わくわくするのね。それで、適当な本を一冊買ったりする。それで、二ページとか三ページ進めたとき、『あ、面白いかも』と思ってしまうわけ。そう思ったらもう駄目。飛躍してる、って思うかも知れないけれど、『私はゲーム感覚で資格を取って、ゲーム感覚でお金を稼いで、ゲーム感覚で生きていくんだ』何か忘れてる、勉強してて楽しいとき、決定的に、私は何かを忘れている、と感じるわけ。感じるのよ、心が。でも、忘れたものについて、思い起こすことは出来ないから、本を投げ出しても、ただもやもやだけが長いこと残るの。
うーん、吟味した本以外はみんな、捨てて捨てて捨てて、私は、忘れてはならないことだけを心に生きていくべきだ、それ以外は何も見ちゃ駄目だ、って、ね、そこまでいくとノイローゼみたいで、自分でもおかしいと思うんだけれど、理由がないわけじゃないの。私は、本当はゲームをすればいいのかもしれない。ゲームは純粋だから。それでも、ゲームをしていて、楽しい瞬間、『これでいいのか?』なんて考えちゃうことが多くて、でも、ゲームの場合は、『うん、確かにこれでいい。ゲームはとても楽しくて、楽しくて、楽しいだけで、それでいい』とちゃんと思える。何だか、ゲームばかりしてるひと、暁世もそうね、って、何だかとても正直なひとに思える。正直で、……うん、やっぱり馬鹿を見てしまうひとみたいに、愛おしくて、何だか、とても……人間らしく思える」
そう言って、唐突に言葉を切って、紗々は煙を天井に向かってゆっくり吐いて、手を伸ばして、僕のテーブルの上にある灰皿で、煙草の火をゆっくり消した。それから、エビアンのボトルを両手で持って、中の水を揺らしながら、自分だけの考えに浸っているみたいだった。僕は、ベッド際の窓から、煙草を投げ捨てた。姉は、それについては何も言わず、僕の動きを合図にするように、残った水を一気に飲み干してから、
「あー、お酒欲しい、アル中になりたい」
と言った。
「紗々、ビール一本で寝ちゃうじゃん」
姉は笑って、
「あー、うん。アルコールは正しいのですよ。覚醒剤もヘロインも正しいの。人生を、健康なひと達の為のゲームだと、知ってか知らずか捉えているであろう社会的な人々は、あらゆる中毒を逃避と捉えるでしょう。そう言う見方しか出来ないのね。多分、……でもこれは言い過ぎね。
でも、違うの、私にアル中になる才能があったとするなら、お酒を飲む理由は、逃げるためではなく、例えて言うなら、善意の保留のため。お酒を飲んで飲んで飲んで飲んで、そして最後に私は、つまり最後まで私は目覚めていて、私の一点は真っさらなままで正しくあって、優しくあるの。そして、それが私の望みでもあるのよ」
紗々は煙草の箱を覗き込んで、もう一本もないと知ると、握りつぶして、部屋の隅のゴミ箱に向かって投げ入れようとしたけれど、入らなかったので、すぐに立ち上がって、歩いていき、身をかがめて、ひしゃげた箱を拾ってゴミ箱に入れて、またすぐに僕のベッドの定位置に戻ると、「煙草はない?」と訊いた。僕は指先だけを上げて、「タンスの一番上」と言った。
紗々はすぐに立ち上がって、タンスを開けて、
「キャメルと、えーとマールボロと、ラッキーストライクと、……ペルメル(と彼女は英国風にわざと格好付けて発音した)と、セブンスターね、節操ないのね、少しずつ減ってる」
「それ全部紗々に貰ったやつだから」
紗々は何も言わずにラッキーストライクを取りだして、ベッドの上のライターを取って火を着けた。僕には勧めなかった。
「紗々、ヘビースモーカーになったの?」
「あれね。喉と鼻の健康の為ね。私は煙草の他には睡眠薬しか飲まない。それと、風邪薬を飲んだりするくらい。だから駄目になっていくの。私には、私の話で、あなたが抱くであろう違和感が大抵は分かるし、こんな戯れ言みたいなこと、暁世くらいしか聞いてくれないけれど……あなたには感謝してる。姉として、一番の隣人として……、誰だってこう言うに違いないの。『優しさって何だ? 正しさって何だ? 人生をゲームだと思うことが何故いけないって言うんだ? 善意がどうとか言うのなら、働いて親孝行して、社会に貢献することこそが、君の『善意』とやらを示す一番の方法なのではないのか? 君の現状、君が行っている怠惰な暮らしこそ罪悪だとは言えないか? 君の言う優しさとは何だ? 親の金で煙草を吸って、終日ごろごろして、食事だけはきちんと摂ることが、君の言う善意なのか? 君の言う、君の心の声とやらは、つまりは全部、ただ君にとって都合のいい、曖昧な逃げ口上に過ぎないのじゃないか?』とね……もちろん、こんな言い方も、型どおりの考え方も、暁世はしない……、それに対して、私は、私の中に論理立てて言葉に出来るような反論があるんだとは思ってないの。でも私は、別に、自分に対してだけ甘い世界観を打ち立ててはいない。……楽をしたいわけじゃないの。……けれど私には感情論しか無いのかもね。ひとに惹かれたり、何か嫌だと思ったりする、多分、私は私の、この感情の他には。何も分からないのかもしれない」
姉はそう言って、いつもの癖で急に黙り込んで、ポテトチップスを食べ終えると、「ひとりになりたいし、書きものをしたい」と言って、ポテトチップスの袋を綺麗に四つ折りにしてからゴミ箱に入れ、空っぽのエビアンのボトルを持って、部屋を出て行った。ドアが閉まるとき、紗々が、殆ど聞き取れないくらいの声で何かを言った。「私は知りたいの」と言ったように、聞こえた。
2
そのまま眠ってしまおうと思ったけれど、僕は長いこと眠れなくて、姉の悲しみが移ったのだと思った。でも、そもそも姉は悲しいのだろうか、姉は書きものが好きで、よくひとりで一日中でも長い文章を書いていて、夜中にいきなり僕に見せに来たりする。今も隣の部屋で、僕に話したことなんか忘れて、軽快にキーボードを叩いているのかも知れない。
「僕には寂しいとき、寂しさを寂しさのまま受け止めてくれる相手がいない。紗々を除けば」
と口に出してみた。
ひどく孤独な気持ちになって、夕方近くになって睡眠薬を飲んだ。数も見ずに、半ば自棄になって数錠飲んだせいか、それとも長いこと睡眠薬を飲んでいなかったせいか、夢も見ないような、長くて青い眠りに就いてしまって、(いや、確かに夢は見た気がするのだけど、それは現実との接点が無く、触感も無い靄のような夢だった)……起きたときには、もう夜中だった。天井に手を伸ばして、「手」と言ってみたけれど、あまり現実感がなかった。静かだった。何だか身体が精神の一部みたいな感じがした。
椅子にかけてあった薄手のウールのコートを羽織って(もう丸一日以上パジャマを着たままだ)台所に行くと、灯りが付いていて、姉がテーブルの前の椅子に座って、ビールを飲んでいた。大分時間をかけて飲んでいたらしく、テーブルには缶の形に小さな水たまりが出来ていた。
僕は冷蔵庫を開けて、牛乳を出して、食器棚から深皿を出して、姉の前に座った。シリアルを食べようと思ったけど、テーブルの端に置いたままのシリアルの箱を見ると、急に何かもっと別の、身体に自然に染みていくようなものが食べたいと思った。シリアルは僕の脳に馴染まない。牛乳は僕の血に馴染まない。
「ねえ紗々」
紗々はビールの缶をゆらゆらさせて、何か嫌なことを考えているようにも見えたのだけど、
「何だい? 暁世くん」
と存外上機嫌そうに答えた。それから
「ビールあげるよ。ちょうどよかった。これ以上飲んだら私の小さな脳細胞が、透明になるところだった」
僕はビールを受け取って飲んだ。ちょうどいいぬるさだった。飲んでから、大分喉が渇いていたことを思い出して、半分ほど残っていたビールを一気に飲み干ながら、冷蔵庫を開けて牛乳をしまって、もう一本ビールを取り出した。紗々には瓶のグレープフルーツジュースを出して、「これでいい?」と見せると、彼女は目だけで頷いたので、シンクの水切りのグラスを取ろうとすると、「苺のマグカップがいい」と言って食器棚を指さした。
マグカップを取りながら、「これ、僕のだよ」と言うと、「それ、気に入ってるんだ」と紗々は言った。
僕がマグカップを紗々の前に置いて、グレープフルーツジュースを注いでいると、姉は何だか、本当はアルコールに滅法強くて、ビールを三本は飲んだんじゃないかと思えるくらい上機嫌そうな顔をしていたので、僕は、書きものが首尾よく終わったところなのかな、と思った。
「ああ、素晴らしいね。グレープフルーツジュースが瓶からカップに注がれていく、ゆっくりと、はやすぎず。カップの中で揺れている。新たな色が産まれてく。何て美しい黄色なんだろう。いや、オレンジ色かな。うん、グレープフルーツ色だ。それから、ジュースを注ぐ素晴らしい暁世くんの手つき、うん、その古典的ともとも言える素晴らしさは……、今、私だけが感じていて、暁世の手が感じている冷たさを、私も感じる気がする。ゆっくり、この瞬間を切り取って形にしたいような……、ああ、あなたはどう? いや、今この瞬間でなくてもいいの。きっと、このことを一生覚えているだろうと、確信出来る瞬間があって、でもどうしてなのか分からない、そういう瞬間が、暁世にもきっとあるはず。私には分かるの」
と言ってから、紗々に向かい合って座った僕に、
「私、少し酔ってるかも知れない。変なこと言ったらごめんね」
と彼女は、口を噤むには苦しいくらいの懸命さが必要なのだ、と言うような表情をしたので、僕は「いいよ。分かってる」と言う表情をしたつもりだったのだけど、成功したかは分からなかった。
彼女から一本煙草を貰って、火を着けてから、改めて「紗々のことが好きだから」と言ってみた。ああ、僕は酔ってるな、と思った。僕も紗々ほどではないけれど、アルコールに強い方じゃない。紗々は「ありがとう」と言って、眼を瞑り、もう一度「ありがとう」と言った。彼女は煙草を、愛おしい何かを考えているような表情で、中空を眺めながら吸って、煙を吐き出して、
「二度言うのは、お世辞じゃないからだよ。でも、お世辞は軽いから百回でも言えるね。本当の気持ちを込めるのは、難しいね。薄っぺらな言葉で相手が感激することもあれば、一世一代の告白が嘲笑されて終わることもある。だから、うん、正直者は馬鹿を見るのかな。言葉に気持ちを、全てを込めようとするから、言葉が見つからなくて誤解されるし、本当のことも嘘に思われたりする。本当の『愛してる』を知っているひとは、『愛してる』じゃ伝わらないことに苦しむから、だからね、だからそこに詩があるし、小説があるし、芸術があるんだよ。と言うか産まれたんだね。芸術は、本来プラトニックなものだったのだと思うな。でも今は……それは技術と美辞麗句だよ、いや、それこそまるで定型的な言い種ね、アルコールで私、馬鹿になったかな、昔は……昔? 昔なんて私は知らない、知っているとして……いや、もともと……人間なんて……」
紗々は急にしどろもどろになって、不意に口を噤んでから、しばらく黙って、グレープフルーツジュースを飲んでいたけれど、その内に酔いが覚めてきたのか、不意に無邪気な様子で、両手で空中に小さな円を描くようなそぶりをして、先ほどの話に戻った。
「うむ。古いライカか8mmカメラで撮って作品にしたいようだよ。ここにペンと紙があれば、私はグレープフルーツジュースと、そして愛くるしい弟を主題にした、最高の絵が、きっと描けるよ。うん、ここにペンが無いのが残念だ」
それからまた、何かを思いついたのか、くすくす笑って、楽しくて堪らないような顔で上を向いて、冗談めいた口調で、
「そして、この瞬間が一瞬だなんて、何という、素晴らしい世界なんだろう。ねえ、暁世くんもそう思いはしない?」
と言って、それから僕の方をまっすぐに見たので、僕は目を逸らしてしまった。彼女は、ジュースに口を付けて、
「この苦み。苦くないグレープフルーツジュースなんて考えられない。でも苦みは、それだけでは、美味しいものの要素たり得えない。不思議なことね。そしてまたこれ以上苦いグレープフルーツジュースがあったら、苦すぎて飲めない」
「ねえ、紗々…」
「ちょっと待って、暁世くん。まず初歩的な質問だよ。絶対に分からないことがあるとすればそれは何だと思う?」
紗々は少し顔が赤くなっていて(あるいは興奮からか)、先ほどよりも大分早口になっていた。僕の答えを待たずに、
「別に分からなくてもいいの。例えば、時計はいつでも何処でも、見るひとに向けて設置されているから、時計の針は右に回る。世界に誰もいなければ、或いは全てを裏側からしか見ない存在がいたなら、或いは全てを内側から見る存在がいたなら、時計の針は右に回ると言う決まり事は、意味を成さなくなるでしょう?
私たち人間は、全て私たち人間なりに、何もかもを解剖するし、何でもかんでも解剖できると信じてる。そして全てを証明できると、或いは証明できないことを証明できると、信じてる。暁世くん、私たちが『分かる』というとき、それには二種類あるのよ。ひとつは、心がそうとしか思えないこと。これは、間違っている可能性も高い。
もう一つは、ある物事を、大多数の他人が『正しい』としていることと整合性を持って……つまり、矛盾なく思い描けること。このとき大事なのは、思い描くことは全て視覚的じゃなければならない、ということ。何故なら、文字や図で描けないことは、分かったことにならないからね。……それは、一種の規格化なのよ。
乱暴に言えば、例えば自分自身の時の流れについては、決してひとに伝えることが出来ない。流れると言うのは、私の、心に対して流れるのよ。身体に対して、じゃない。身体を感じるのも、また心だから。……屁理屈だと思わないでね。そしてまた、私の心そのものが、流れていくの。
生きた人間を生きたまま解剖することは出来ない。本当に生きているものは原理的には、言葉にも絵にも出来ない。詩や芸術は、人間にとってのとても大切な覚え書きみたいなもので、それ以上のものではない。でも、それ以上のものではないという、そのことが、どんなに素晴らしいことか、私たちは、どんなに少しのものから、どんなに大きなものを見ることが出来るか、……(これはつまらない決まり文句ね)、つまりね、私たちに抱ける一番偉大な感情は、『何かがすごい』という形を取るものではなくて、それはただ、『今生きている』という当たり前のこと以上ではないと思うの。
見ていること、それ自体がひとつの形式で、形式に対しては、形式的に驚くか、或いは形式を外れていることに驚くか、そのどちらかしかない。私の意見では。みんな標識に書いてあるのよ、
……起きたら歯を磨きましょう、パジャマを脱いで服を着ましょう、ドアから出たらまっすぐ行って、二番目の曲がり角を左に、そこに絵……1951年、ある高名な画家が妻を亡くした失意からアル中になり、筆を折る決心をしたのですが、ある珍しく晴れた朝、ふと彼女の存在を頬に感じて、たった半日で描き上げた彼の豊潤の第二期最初の絵、……が架かっているのを右手に見ながら、直進し(交通状況に気をつけながら)、三番目の角を右に曲がると駅が見えます、先ほどの絵は、キュビズムの影響がやや見られますが、もうポストモダニズムの萌芽が現れていますよね、電車に乗ったら八つ目の駅で降りましょう、みんな死んだような目で生きてる、目立つ動きは控えましょう、ひったくりには注意しましょう、旅は悲しい、死にゆくみたいに、今日という日はあなたにとって、最期の日かも知れません、毎日三食食べましょう、夜は少々少なめに、詩人はお金になりません、彼は三十歳で死んだ、彼女は二十四歳、事故死、自殺、病死、自殺、事故死、事故死、自殺、狂死、誰もが死んだという現実、彼や彼女が生きた現場、死んだ場所、誰も興味なんか持たない、少しずつ声は大きくなる、感動しましょう、素晴らしい世界、なんて大きな、偉大な、自然、芸術、努力すれば誰でも出来る、成功しましょう、幸せになろう、……
誰も聞かない、私も聞かない、大声で本当のことは言えないって、みんな知ってるから、本当のことは、大声で言おうとしても声にならないのが本当だと私は思うから、だからね、私たちは忘れていく、でも本当は覚えている、泣きたくなるような、たったひとつのこと、たったひとつの全て、それでも言葉に出来ないこと」
紗々はいつになく興奮して喋っていて、煙草を吸おうとして、灰皿の上で煙草がとっくに燃え尽きているのを見て、胸のポケットから(彼女はカーディガンを着ていた)ラッキーストライクを一本出して、火を着けて、深く吸った。それから、テーブルに置いていた僕のビールを取って、何口か一気に飲んで、「何これ? 美味しい」と言って、缶を自分の手元に置いた。僕はまた立ち上がって、冷蔵庫からビールを出してすぐに開けた。「黒ビールだよ。最近嵌まってる。グラスに入れると綺麗な泡が作れるんだよ」と言いながら、紗々を見ると、彼女は、またビールを一口飲んでいて、僕がグラス(ビールを入れると、グラスの模様が夜空の星のように見える)を棚から出して椅子に座ると、紗々は、僕たちにだけ相通じている音楽の装飾記号みたいに「うん」と言った。
紗々は音を立てて黒ビールの缶をテーブルに置くと、上半身を傾けて、今置いたビール缶の隣にぺたんと頬を付けて、横目でビールのラベルを見ながら「黒ビール、苦くない、アルコール、高い、でも、酔わない、キャラメルの味、素敵、とても」とぶつぶつつぶやき始めたので、これはベッドに運んだ方がいいかも知れない、と少し面倒に思いつつ、僕がグラスに注意深くビールを注ぎ始めると、紗々は自分が全く正気であることを示すように、自然な動作で背を伸ばして、両肘をテーブルに着いて、テーブルの上、二十センチほどの高さに浮いている架空の球を包み込むような格好で、両手の五本の指を合わせたあと、少しだけ肩を落として、何も見ていないような、また何もかもを絶対に見落とすことのないような眼差しで、僕の挙動を見ているようだったので、僕は緊張してしまったのか、自分の唇を噛んでいることに気付いた。
紗々に向かって、「あのさ、そんな真剣に見られると困る」と言った。紗々は、瞑想的な態度を崩さず、その代わり、合わせた両手の指を心持ち口元に近付けながら、
「あのね、暁世くん。初めてなんだよ。私は、黒ビールを注ぐ風景を、現物でも、テレビでもネットでも、見るのが、初めてなの。初めて、というのは、一回しかないの。例えそれがどんなに些細なことであっても。一回目と二回目とでは、意味合いが全然違うの。二回あることは三回あるわ。でも一回目に起こったことは一回きりかもしれない。二回目はもう、ないかもしれない。いいえ、それも違うわ。ねえ、全ての物事はすべからく一回きりなの。本当は全てが全ての始まりなの。
付け加えて言えば、過去が現在の理由であり、現在が未来のスタート地点だなんて、字義通りには私は信じないけれどね。でも、今は少しばかり生活的な、つまり生活の時間の中で私の取るべき態度について話しているわけだから。……言葉は全て便宜的なものよ。それでも言葉ほど私たちにとって光に近いものはない。思い出すのよ、私たちがそれを目撃するならね、言葉を正しく受け取るなら、光を、私たち自身が光だったことを。未来でも過去でもない記憶を……曖昧だわ、言い過ぎね……つまり、今この瞬間から次の瞬間には絶対に行けないことを、私はいつも始まりの場所にしか生きられないことを、言葉によって思い出すの。でも私は、その、世界の不断の一回性という驚異的な事実にさえ慣れ親しんでしまう。だから、こうして、ときどき思い出す必要があるというわけなの」
と言ったあと、彼女はしばらく瞑想者のような体勢のまま、沈黙を保っていたのだけど、不意に両手をゆっくりと肩幅ほどに拡げてから降ろし、「ごめんね」と言って、声を出して笑って、
「いつもの自分って何だろうね? 酔うと不安なの。ほら、酔いはじめって、いつもの自分みたいなんだけれど、でも何処か違うような気がして、不安になって、うん、もう少しだけ飲むと、全然平気なんだけれど。ごめんね。ビール、綺麗に注げるといいね」
と言った。
僕は、缶を開けて少し時間が経っていたから、泡が綺麗に立たないかもしれないな、と思いながら、缶の中のビールをグラスの底に一気に注いで、それからゆっくりグラスの縁ぎりぎりまで流し入れると、思ったよりずっと、上手い具合に綺麗な泡が立ったので、テーブルの真ん中辺りに少し自慢げにグラスを置いた。紗々はそれをじっと見ながら
「完璧すぎるね。すごいね。ビールとは思えない泡ね。これはきっと定型句のように『カプチーノの泡』のよう、と言われるのだろうけれど。でもカプチーノとの違いは、仄めくように澄んだ、甘い味のする冴えた黒い部分と、どこまでも白くて、儚さを思わせる白い泡とのコントラストだろうね。カプチーノと比べれば、もちろん黒いビールに軍配が上がるわ。カプチーノは、綺麗なのは口を付ける前の一瞬だけだし、もちろん立体的な美しさはないから」
と言って、もう酔いが醒めかけたかに見えた紗々は、「少し飲ませて」と言って、グラスに注いだばかりのビールを、三分の一ほども飲んでしまった。「これ、本当に酔わないみたい」と言って、「でも、もうやめておく。私には多分、酔いと素面を区別する判断力が、人並み外れて、欠落していると思うから」
紗々はグラスを僕の方へ滑らせて、それからまた瞑想的仕草を取りかけたのだけど、すぐにまた煙草に火を着けて、少し落ち着きなく吸い始めた。
僕はビールを飲みながら、夢で見た風景(とも言えない風景)を思い出そうとしていた。紗々が出てきた気もするし、遠い昔に、そう親しくなかった級友が出てきて、何故か重大な話を当たり前のように僕に語ったような気もするし、それもみんな今考えた創作のような気もしてきた。「聡明なる天使が」という文句を何年間も、(恐らく精神病院の一室で)ノートに何十冊にも渡って書き続けて死んだ、詩人の話を急に思い出したりもした。(これも、今僕が適当に考えた創作のような気がした。)僕はかなり酔っているのだろうか。
紗々はしばらく、話の緒を探すかのように、椅子の上で両膝を立てたり、片膝を立てたりしながら、少なくとも眠気はない様子で、躊躇うように唇を動かしては、また口を噤んだりしながら、「そう、ね」と言って、グレープフルーツジュースを口に含んで、少し時間をかけて飲み下し、「うん」と言うと、少し声を大きくして「話を戻そう」と言った。何か不思議な活力を、頭の中で探し当てたみたいに。手をこすり合わせながら、「えっとね」と笑って、
「絶対に分からないこと、を暁世に答えさせたくなかったのは、あなたが『意味論的限界』だとか『統語論的限界』だとか、あるいは『形式的限界』でも『認識の限界』でも『物質としての脳の限界』でも何でもいい、何か哲学か衒学めいたことを言うだろうと思ったからなの。
そこに言葉があれば、『はい、ここからここまでが分からないものですよ』なんて言ってね、怖くも何ともない、それはただお盆に載せられた言葉でしかなくなってしまうの。深海魚と同じね。『はい、これが未知のアンコウです。水圧が弱くて破裂してしまいました。深海の底の暗闇で生きていたときの姿は想像に任せます』ってね。
……話が変わるみたいだけれど『人間が認識をやめたとき、そこには全てがあります』と言う言葉が仮に真実だとして、それじゃ人間はみんな死ななくてはならないよね。そう、死ななくてはならないの。でもそれじゃ話にならない。いい? 私が言いたい、『誰にも分からないもの』とは、誰とも分かち合うことの出来ない、産まれてきたことの孤独なの。
くだらないことだと思わないでね。まず、言っておかなくてはならないことは、『分かち合うことの出来る孤独』なんてものは感傷的で表面的で、そして社会的なものなのよ。そして、それは……、否定的に言ったけれど、でも、ひとは誰かと共にいなければ生きていけない。ひとと共に感情や憶測や、そして優しさや楽しさを織り合って、そして始めて、人間は白紙ではなく意味のある存在になる。(曖昧な言い方を許してね)ぼんやりとではなく、はっきりとした光に満ちた存在になるの。そして、ひとりのひとは、自分の孤独を分かち合っていると信じること、それなしには、生きていけない。
例えば私は、私以外の誰もかもが四六時中楽しげに笑っている世界の中では、生きていけない。私だけが笑えない世界で、私は自殺するしかないの。共感していられると、誰かと孤独を分かち合えていると信じられること、それなしでは人間は、多分生きていけない。よほど強い人間でないと。そして、もっと正しく言うなら、勇気のある人間じゃないと。
そして、私が言いたいこと、そして考えていることの多くは、その、勇気のある、そして孤独な人間の存在についてのこと。勇気があること、そして本当に孤独であること、それは同じことでもあるのよ。ここで分かって欲しいのは、孤独とは、孤独になろうとしてなれるものじゃないの。それは、自分が孤独であることを認めることなの。完璧に、完全に。
少しだって自分を保障してくれる何かなんて、そんなものは、何ひとつないんだって認めること。簡単みたいだし、馬鹿げてるみたいに聞こえるかもしれないけど。……誰かに分かってもらおうとすること、そのためなら人間は、信じられないようなひどいこと、人殺しだってする。誰だって、自分の孤独をひとりで抱えて生きることは、殆ど不可能に近い。
……でも、話がずれたわ。そう、私が言いたいのは、そう言う種類の感傷的な(感傷的と言う言葉を悪い意味で使うつもりはないんだけど)例えば、『寂寥感』なんて呼ばれるような孤独ではなくて、本当に本当に、自分ひとり以外、何も、誰も、何もかもよすががなくて、たったひとりで世界と、……何というか対峙する……? うーん、ちょっと大袈裟だ。えーと、世界の中で生きることの、そして自分が自分以外であり得ないことの、世界が世界でしかあり得ないことの、謂わば戦慄なのよ。(これも大袈裟すぎる言葉遣いかな?)それは一番怖いことなんだ。
……けれど、その恐怖こそ、人と人とが完璧に完全に繋がるための、たったひとつの意識のあり方なの。逆説的なんだけど、本当にひとりのときだけ、人は本当にふたりになれるし、何かと、何もかもと出会うことが出来る。ただし、その恐怖を受け入れたときに限って。孤独とは、それはね、言ってみれば、この世界の全てと別れることなのだから、普通の人には耐えられない。でも世界とお別れすることで、世界と出会えるの。それは、いつもの世界で、いつもの誰かと出会うこととは、まるで違う体験で、例えるなら、宇宙の外で奇跡的に人間と出会うような感覚、……あくまで例えだけどね。
ひとは、孤独を避けるためなら、どんなことでもする。感傷的な意味の孤独でも、絶対的な孤独においても。でも、私が、今特に考えているのは、後者よ。いい? 絶対に分からないこと。それは、あなたが孤独であるということなの。寂しさなら知っている、ひとりきりのときもある、なんてこと、頼むから言わないでね。そして、それを知るには、あなたはあなたから離別しなければならない。あなたはあなた自身を失わなくてはならない。だからあなたは孤独を知ることは出来ない。もっと正確に言うと、孤独とは知るものではなく、ただ在るものなの。あなたが正しく孤独であるとき、あなたはただ孤独と共にあるのよ。
……暁世は多分、じゃあ何ゆえに、私が孤独について、その恐怖について語ることが出来るのか、ってきっと思ったでしょうけど、それは、実際私が馬鹿正直に生きたことがあったからなの。あなたくらいの頃に。暁世以上に哲学だとか何かにかぶれちゃって、哲学書や何かを山ほど買ってね、結局全部言葉じゃないかって思ってね、全部焚いたわよ。って、言いたいけど、まだ倉庫に全部残ってる。すごい書き込みしてるから、暁世の為にもなるよ、きっと。つまり、まあ、私の考えには生まれつき一貫性があるから……、私の主張に、じゃなくてね、……私という人間が、或いは私の影が、倉庫の中には眠ってるから、興味あったら読んでみれば、暁世の夢物語には面白いかも知れない。
私のDNAはこの世界では変質的なの、特権的な意識を全く抜きにして。ある部分では私と暁世のDNAは100パーセント同一なのよ。全てが暁世と同じだったらよかったけどね。……ああ、ねえ、この私の口癖みたいな詩的、うーん、ポエムな言い種だけを覚えていたりしないでね。たまに冗談を言ってたな、とかその程度に覚えていて欲しいな。
……私が学んだ全ては、言葉を信じないこと。そして、それにも関わらず、言葉を信じること……私は私が私だと思っている私を捨ててみた。物事を本当にありのままに受け止めようと、私はただ感じるままに感じて、他意もなくひとに優しくしたわ。本来私はそういう風に出来ているものなの、多分、普通に生きていればね。人間は、お互い共感できる能力を、誰もが、自分で思っているよりずっと強く持っているものなのよ。
私は、言葉が世界を駄目にしてしまったみたいに言ったかな? それは違うの。私が言いたいことは、広々とした素晴らしい世界を、えーと、既成概念、というものがが狭く、駄目にしている、なんてことではないの。誰もあなた自身を規定できない、ってだけ。理性って、本当は何だと思う? それは自分がひとりぼっちであると自覚している、と言うことよ。
……例えば、……上手い例えが思い浮かばないな、えーと、あなたが今から(今すぐよ)フランスか何処かに行って、とても高級なレストランに入るとする。まあ、服はそれなりに整えてね。あなたは緊張して味も分からない。何故だと思う? それはあなたが『緊張して味も分からない』あなた自身が好きだからよ。あなたは本当はどのようにもなれる。あなたは誰でもない誰かに今すぐ変貌することが出来る。
でも、さらに言えば、誰でもない誰かでさえない何かであることを選んだときだけ、あなたは正しく誰かになれる。それは、ひどく、ひどく怖いことよ。きっと、始めて言葉を作った人間も、同じ恐怖を、或いは不安を感じていたと思うわ。いい? 万人なんていないの。ただ、あなたひとりきりだけが、本当に感じて、本当に知って、本当に考えなくてはならない。そして、全てにお別れすることを決心しなくてはならない。そうして初めて、あなたと私は、本当の意味で、出会えると思うの。……寂しい話になっているかもしれないのだけど。
暁世は暁世、私の愛する弟。(私は運命論者だからね)でもそれは、謂わば別の次元の話。……私は、一元論者でもあるし、そうじゃないとも言える」
そう言って、煙草の火を消すと、不意に立ち上がって、「もう眠ります」と言って、マグカップを洗って、台所を出て行った。
3(紗々のノート)
眠れないので書きます。
手紙を書くときは、意識が生活している私から離れて、ただ書くためだけの「私」になれるので楽です。今は生活的なことが具体的にどのようなことを指すのか分かりません。何時何分かに起きて、何かしたり何もせずに寝てたりしてた私の行動に伴う感情の分解と再解釈の散文的羅列が「生活的なこと」なのでしょうか。
生活とは決まり事と、決まり事からの逃れ方についての決まり事でしょう? 私は私を選択なんてしたくない。私は自分が泳いでいることを知らない魚であるかのように、満足して生きていたいのです。そのとき海は魚を知らず、宇宙は海を知らないのですけれど、それにも関わらず魚は満足して泳ぎ続けるでしょう。目を瞑るとき……その魚には瞼があります……、彼または彼女は全き賢者なのです、その魚こそ全てを知る者、私の理想なのです……。
私は窮屈です、本当に今は、生きた動物や植物を調理した何か、なんて想像もしたくなくて、私は光合成するか、プランクトンを食べて、薬を工場生産された炭酸水で飲んで、眠って、時間の無い世界で、いろいろな色の光の発現する世界で、最初の一文字から自力で順番に見付けて暮らしたい。
私はまだ、何も見付からない。私には、言葉がない。私には、願望しかないのだけれど、願望が諦めに変わるのがあまりに早すぎる。
ともかく私は眠れなくて、空から睡眠薬の雨が降ってくればいいのに、と願っています。自然界は人間の願望を叶えるために存在しているのではなく、そしてまた、人間の作った社会だって、自らの願望を叶えられるようには出来ていません(今はまだ、と言うことです。希望がゼロでないならば、希望を支持する方が健康的です。一番の問題は、自分の願望を正しく把握することの難しさです)。人間が人間にとってどうでもいいものであるなら、私(たち)を本当に救ってくれるのは誰だろう? 私を正しく救ってくれるのは。
今朝私は小説を五十枚ほど書いて、それは多分、私にとっては相当早い創作ペースで、五時間くらいかかったのだけれど、書き始める前、弟に言い残したことが気にかかっていた。でも弟は私を気にかけてなんかいないだろう。少し書いてから、暁世に話そうと思って、とりあえず画面に意識を集中させてから、十五分くらい経ったかな、と思ったら、五時間経っていて、今書いていた小説を読み返すと、小説の中の「私」はもう二、三時間くらい、浮かれたように喋り続けたり、寝転んだり跳ねたりしてて、その間私はただ、何というか新しいダンスミュージックを次々に衝動買いしていると言う感じに似た感傷に浸っていた。……音楽の場合は、外からの情報に私の心が感応して興奮するわけだけれど、自分で書いた言葉に自分で興奮するのは、どういう訳なんだろう?
もし、脳内麻薬を自力で分泌出来るのなら、寝転がってても勝手に楽しくなれればいいのに。
つまり、多分、私の寝転び方はまだ、瞑想の段階に至っていないということなのだろう。創作とは瞑想の周辺を彷徨い歩くことなのだと感じることがある。そして、創作の最終段階とは、創作の否定である、とも。
私は私であることを捨てられない。私は死にたいし、もしくは三千歳まで生きたい。何故と言って、私は与えられた私を忌み嫌うし、私をぎりぎりまで否定したい。そしてまた、私は、優しい時間を信じてる。優しい時間の為に、私は三十歳で死んでもいいし、もしかすると、私の生死を、誰でもいい誰かに委ねたって構わない。そう、暁世、うん、手紙にしよう。ここからはちゃんと手紙。
『私はある日、私の身体を、私の最後の所有権を、自然に放棄するのよ。自然にね、或いは不自然であってもいい、そのとき私には声がない、もはや私には優しい時間しかないの、私なんてないの、ただ透明な「私」という言葉だけが浮いてて。汚泥の底で、それとも澄んだ金魚鉢の中かしら、ともかく誰かの「手」に縊られて、私は死ぬ、死んで、死んで、死ぬ。この世界から完全に消えてしまう。
彼は(或いは彼女は彼らは彼女らは)、私を殺したことにも気付かずに、それでもきっと、何人かは(と言っておきましょう)、私の声を聞くのね、それとも風の音かもしれないし、雲の影の親しみかもしれないし、或いは地下のディーゼルエンジンの爆発音かも、何でもいいの、誰かがそれを、私の声と知らずに聞いて、ほんの少しだけ、自分の世界に違和や不和を感じるの、馴染みある世界に、忘れかけていたような、それとも全く新しいような、「意味」を見いだすのよ。
(意味!)と彼らは思って、思った途端に意味を捨てて、家の中が外みたいな、あべこべな感覚、混乱するほどではないのだけど、寧ろ好奇心に近いような何かを感じるのね、それで多分、自分でもよく分からない何かを探しに出かけるの。それから彼らは、いつもより少しだけ誰かにそっと優しくするか(それは相手には気付かれないかもしれない)、それとも迷いなく山の奥の奥の方まで歩いていって、夕暮れ近くなって、一本の木に目印(それはもし本当に死にたくなったときに、首を吊るための木、そのための目印)を付けてから「暗くならない内に帰ろう」なんて呟くの。
それから、自分が言った言葉が、奇妙に、何というのかな、今まで聞いたことないみたいに、体温より少しだけ温かいように、何だか美しく感じられて、もう一度、はっきりと呟くの。「暗くならない内に帰ろう」って。それともある人は、急に手紙を書きたくなるかもしれない。書きたい気持ちはあるの。書きたい相手もいる。伝えたいこと。伝えたいことはね、「ハロー」とか「こんにちは」とか、そんなことなの。
そんなことなのだけれど、彼らにはね、自分の気持ちや、誰かに対する、例えば幸せを願う気持ち、親愛の気持ち、愛情、静けさが素敵なこと、いろいろなことを、ただ「こんにちは」に集約出来るとしか思えなくて、何度も何度も「こんにちは」のあとに続けて、何事かを書くのだけど、書くほどに「こんにちは」の優しい静けさが台無しになるのを、殆ど嫌悪を伴いながら感じるの、……手紙の線や字が歪んでいくのをね。
それで、何枚も何枚も手紙を破り捨てたあと、諦めて、ベッドに座り込んで、空中の何かに向かって笑いかけるみたいに、長いこと微笑んだり、それから泣き出しそうになっては、泣くのはいけないことのように思えて、そう思うともっと悲しくなるの。しばらくしてから、そのひとは立ち上がって、ポストカードを買いに行こう、素敵な絵はがきを探しに行こう、と思い立つ(まあ、これは、いい仮定ね)。それから先、そのひとがずっとそうである、という保証はないけれど、泣くのをやめたときや、手紙を書くことを思い立った瞬間だけは、そのひとはとても詩的な人だったのよ。あるいは私的と言ってもいいかもしれない。要するに人には寂しいくらいに優しくなれる瞬間があるの。そんな瞬間には、定型文なんて、見た瞬間に吐き気をもたらす毒物みたいなもの。カミングズなんかね、うん、常備されてるべきよ。……私が死んだときにはね、うん、そうだといいな。
生きていて、私たちのどれくらいが、本当のことを知ることが出来るだろう? 私が時計を着けないことは知ってるわよね? 外に出るのが嫌なのも、何処に行っても時計があるから、というのも理由のひとつなの。時計はチクタクチクタク動き続けるわ。でも、あれは私達が安心して心を委ねられる、心の外部にある世界の指標ではないの。時計の秒針は、私達が自分で動かしているものなのよ。……結局みんな悲しいのよ、悲しいことに悲しいし、悲しくないことに悲しい。だから今日も時計は動く。だから私は悲しい。暁世は何が悲しい?
私は混乱しています。じゃあね。』
4
僕が学校から帰ってくると、紗々は僕の部屋にいて、ベッドに腰かけて、いつになく心許なさそうに、両腕で自分の身体を抱きしめるようにしたかと思うと、すぐに腕を拡げたりしていて、僕が何も言わずに椅子に座ると、僕の方を一瞬見て、またすぐに目を逸らした。しかしすぐに寧ろ僕を凝視するように、上目遣いで僕の方を見た。
僕は姉が何か喋り始めるまで待っていたのだけど、彼女がなかなか口を開かなかったので、あきらめて教科書を拡げた。姉は視線をずっと僕の方に向けて、僕の一挙一動を、馴染みの無い風景を見るかのようにじっと見ていた。
僕が、教科書を見るともなく見ていると、しばらくして紗々は、黙ったままで、ぼんやりした挙動で、ライターを胸ポケットから出して、緩慢な動作で煙草に火を着けて吸い始めた。一度煙草に口を付けると、それからは自分が煙草を持っているのも忘れたみたいに、煙草の灰が落ちそうになっているのにも気付かないみたいだったので、僕は無言で灰皿を彼女の傍に置いた。
「何か、飲む?」と訊くと、彼女は頷いたので、僕は台所に行って、冷えた、ライム味の炭酸水と、グラスを持ってきた。炭酸水をグラスに半分ほど入れて、ベッド脇の小さなテーブルに置いた。彼女は、それにほんの一口付けて、「ありがとう」と言いかけたけれど、すぐにまた不安そうな姿勢に戻った。
不意に彼女は平坦な口調で「何も書けなかったわ」と言った。「何の為に、何の理由が、感情的必然性があって、書いていたのか、ううん、生きているのか、急に分からなくなる」と言って煙草を吸って、大分長いこと経ってから、煙を吐いた。
「ただこうしていることの、自然さ、自然な満足、なんてあればもっと素敵だし、それこそ当たり前に自然なことだと、私は思うのに。……、とても不安だわ。今日は、朝から、とても不安なの」
それから、姉は煙草の火を、灰皿の底で丁寧に揉み消して(それは寂しいくらいに、ゆっくりとした動作だった)、
「書くこと、喋ること、それはときどき、空虚じゃないんだけど、悲しいくらい私とは関係ないことだと思う。私は、知っている、生きることは、ただ生きていることだけなんだって。ただ、私は臆病なだけなんだって。知っていること、考えること、その殆どは無くていいものなんだって。私は自分の怖さから、逃れたいだけなんだって。でも、そう思うことこそが、まさに私の堕落なんだって。……堕落。どうしようもないの。とにかく悲しいのよ。今朝から。死にたいなんてさえ、私は今思ってる」
僕は何も言えなかった。教科書を見るふりをやめて、僕はまた、(「紗々が好きだよ」)と言おうと、殆ど反射的に考えた。考えてすぐに、ひどく白々しい言葉だ、と思って、
「紗々、横になりなよ」
と言った。彼女は、言われたことにただ淡々と従うだけ、と言うように、目を開いたままで、強ばった姿勢のまま、ベッドに横たわった。僕は彼女に、安定剤を一錠飲ませて、彼女の傍らに腰かけて、紗々の背中を撫でた。彼女の力が抜けてくるまで、長い時間そうしていた。
紗々は眼を瞑ったままでくすりと笑って、「暁世、ありがとう、暁世。ごめんね。少しだけでいいから、隣で寝てくれない?」と言った。僕がそうすると、彼女は何故か、二、三度僕の頭を撫でた。それから、僕が彼女の頭を撫でると、紗々はすぐに眠ってしまった。僕は彼女の頭を撫で続けた。
一時間ほどもそうしていただろうか、僕は眠れずに、起き上がって、机の前の椅子に座って、紗々の顔を見ていた。幼い子供のように、また何か、どうにもならない何かに耐えているような表情で、紗々は眠っていた。僕は教科書をしまって、パソコンを立ち上げて、何かを書こうと思った。紗々の寝顔を見ながら、何でもいいから言葉を書こうと思った。彼女に見せるつもりのない手紙を一行ずつ書き始めた。
『紗々が倉庫に残した蔵書を、僕が読むのは(きっと読むだろう)まだ先のことになると思う。それが明日かも知れなくても。今は、紗々の寝顔が全てで……、ねえ、紗々、僕は紗々のことが分かりたいよ。理解なんて、そんなものじゃないんだ。僕は、……言葉が欲しい。もし、遺書を書くことで、この世界とお別れして、そしてそこで本当の紗々に会えるなら、僕は今すぐにそうする。けれど今の僕には、紗々の寝顔を見ることしか出来ないんだ。それさえも否定することはとても、やっぱり怖いことだよ。
紗々、僕はいつでも紗々の背中を、頭を撫でてあげる。僕は紗々が読んだ本を全部読むよ。紗々、僕はひとりだよ。紗々も多分、ひとりなのかな。でも、僕は紗々といるとき、ひとりじゃないよ。僕は紗々をひとりにしたくないよ。傲慢で、お節介で、自己欺瞞かも知れなくても。でも、僕は紗々と話をしたい。ねえ、眠っている紗々。僕は、悲しいんだ。眠っている紗々、僕は、紗々との共通言語が欲しいんだ。僕は、紗々と話をしたいんだ。ねえ、今は眠っている紗々、いつかは僕を……』