氷河の朝
ホロウ・シカエルボク
女は朝早く家を出て行って、俺は彼女の最後の言葉をシンクの中で火葬する、昨日まで続いていた雨は止んで、ブルーの薄いスクリーンが貼られてでもいるように空は均一に青い、真夏の様な猛烈な光と熱が暴れ始めているけれど、積乱雲になるにはまだ少し早いみたいだ、よく考えてみればその前に梅雨がある、気温が安定しないとそうした認識が一気に乱れてしまう、今日と昨日で温度差が十度もあるなんてまったく世界中で狂い始めているのは人間だけじゃないのかもしれないなんて考えてしまう、滅びの日は始まっている、進化をやめた時点で、でも日曜の朝に差し当たって問題にすべきことは、1人で朝食を作って食べなければならないということだ、けれどそもそも俺は夜だけしっかり食べる人間だから、それほどの苦労はしなくていいだろう、冷蔵庫を開けてみると取りあえず山ほどもある卵を片付けるべきだという結論に達した、久しぶりにターンオーバーにしたい、と身体は告げていたが、ここは繊細な日本人らしく蒸し焼きにするべきだと押し切った、二人から一人になったと一番実感する瞬間というのがこういう時だ、油が熱を帯びてのべつ幕無しに喋り始めたり、卵を落としたときにシムシティの住人たちのように聞こえてくる歓声、そういう音が信じられないくらい大きく響く、俺はどこに居るのだろうと思う。長年住み慣れた部屋の中で、まるで壁材が変わってしまったのではないかというほどに音は弾み、響く、そういや昔、実家の近くで建設途中だった山中の誰も来ないトンネルの中を歩いたことがあったなと思い出す、トンネルは抜けていたけれど、その先の道がまだ作られていなかった、だから何も気にすることなく歩くことが出来たのだ、あれは奇妙な体験だった、世界に自分だけしか存在していないのではないかとさえ思えた、あまり公に口にするのは憚られるが、俺には昔からそんな願望がある、ウィル・スミスの映画でそういうのあったじゃん、「アイ・アム・レジェンド」だったかな、まあ、ゾンビと闘うのは御免だけどね、世界中にただ一人なんてきっと、毎日をご機嫌で生きられるに違いないよ、そんなことを考えながら97点の目玉焼きを皿に乗せ、レタスを添え、ケチャップをぶっかけて食べる、いつも食事をするときには隣で喋り続けている女が居た、それが居ないくなると話し相手は今日なら目玉焼きになる、どうだい旦那、いい半熟だろう、なあ、それは確かにお前の存在に寄るところが大きいのは確かだけれど、俺の技術だって十分に必要なんだぜ、なんて、俺は首を傾げ、シンクに食器を戻しさっと洗って伏せておく、水滴がシンクに落ちる音が目覚ましのアラームのように響く、部屋が静かなせいなのはもちろんだけど、俺の中がいつになく空っぽなのも関係しているのかもしれない、歯を磨いてサローヤンを読む、思えばそんな風に落ち着いて読書をしたのは数年ぶりのような気がする、それに気づいた瞬間、俺は1人でしか生きていけないのかもしれない、そう思うとなんだか自分のことが酷い欠陥を抱えた人間みたいに思えて来た、でもそれを悲しいと思ったりいらだたしく感じたりするには俺は少し冷め過ぎていた、思えば小さなころからそうだった、俺という1個人は本当はどこか別のところに存在していて、俺はそいつの基本的な部分をコピーした簡易的なクローンなのではないかというような思いをずっと抱えて生きて来たのだ、周りの連中がとても無邪気に感情をあらわにして暮らしているのが不思議で仕方が無かった、本当は皆そんな思いを抱えて皆用の自分というキャラクターを演じているのかもしれない、幼い頃はそう思っていた、でも長く生きているとその考えが間違っていることがわかってくる、違う生きものなのだ、こいつらと自分は、悩んだ時期もあったけれど、あるところでそれは吹っ切れた、違和感として生まれたのなら違和感として生きるしかないのだ、違和感を否定する連中よりはずっと健全だった、あんな窮屈な物差しの中でよく楽しそうに生きていられるな、とずっと不思議だった、でもそれも段々とわかってきた、結局のところ彼らは何も考えてはいないのだ、大衆の上空に漂う雲みたいなイデオロギーを何の疑いもなく受け入れてそれだけを信じて生きて来たのだ、あらゆる価値観の基準がそんな曖昧なものに委ねられていて、自分で判断することをしない、俺はそれをおぞましいと思った、とてもおぞましいと思った、それはもう人生である意味すらないものだった、少なくとも俺にとっては、飼犬は知らない、ご主人様がリードを持って来なくても外を歩けることを、そんなことは考えたこともないのだ、気付くとそんなことばかり考えていて、本のページは10分ほどまるで進んではいなかった、ため息をついて本を閉じ、テーブルに置いた、今俺は生活というものがどんなものだったかと考えている、この部屋はあまりにも空っぽで、廃墟のように静かだ、存在していることが申し訳なく思えて来るほどに、でもこれはそんなに長く続くことじゃない、俺にはそのことがわかっていた、人間なんていつの間にかすべてに慣れてしまう、俺はいつだってなにも言わなかった、そりゃあ女だって出て行くわけだよね。