砂の城の考察 #1
まーつん

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ある想いを、紙に起こそうとすると、そもそも、何を考えていたのかが分らなくなってしまう。そんなことはないだろうか。

 それは、砂浜に盛り上げた砂の城を、テーブルに移そうとするようなものだ。手に掬う端から、苦心して押し固めた城壁や尖塔が、ただのさらさらとした砂に広がってしまい、容易く原型を手放す(あるいは、無形という原型を取り戻す、といってもいい)。

もちろん、数字や科学の論文、会計報告書、楽譜といった、解釈に揺らぎが生じにくい言葉や記号の集合体もある。これらは数や物質、物理現象、金銭、音、といった、具象的な情報の詳述だ。だがここで取り上げたいのは、物語や詩、手紙や、個人的な会話など、多かれ少なかれ、そこに誰かの心象が含まれた言葉の集合だ。心象とは抽象的で、つかみどころがない。それで筆者は砂粒に例えた訳だ。

そもそも砂粒は、互いに引き寄せあって何かの形を形成する性質など持ってはいない。いや、持っていないわけではないが、すべての物質には引き寄せあう性質があるとしても、少なくとも、砂粒のように微細な存在が、この星の重力に抗って、互いに引き合うほどの力は持ち合わせていない。だが、風や水に掃き集められ、どこかの波打ち際で、無垢で幼い手によって、何らかの形に押し固められることはある。同じように、何らかの想いというのもまた、精神という、無数の粒子の集合体が、一時的に形成した形の一つに過ぎないのかもしれない。

もしもすべての言葉が、それを話す者の心を模した不完全なイミテーションだとしたら、全ての話者はうそつきだ、ということになる。乱暴な言い方にはなるけれど。だがそれは、話し手が不誠実なのではなく、ただただ、言葉というメディアの持つ不完全さと、心という存在が持つ不確かさに起因している。言葉が指なら、心は、そしてそこから生まれる想い、思考や概念は、形を保てない砂の集まりに等しい。星やハートの形をした塊を救い上げようとすると、さらさらと指の間を零れ落ちていく砂。

 ならば、話者はある想い、概念や思考の創造者であると同時に、贋作者でもある。「真作」は、あくまでも話者の心の中にあり、「贋作」は言葉に変換され、原稿や本のような物体に刻まれた文字の連なりとして、外部に発せらた状態を指す。さらに、一つの言葉やセンテンスを巡っても、受け止める側の人間それぞれで、その解釈に微妙なずれがあるとすれば、ある情報を、その形を変えずに誰かの記憶に転写することなど不可能だということになる




散文(批評随筆小説等) 砂の城の考察 #1 Copyright まーつん 2025-03-16 11:42:34
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