知の偏在
室町 礼
日本地図を名古屋のあたりで折って重ねると
東京の皇居と日本最大のスラムドヤ街、
大阪西成あいりん地区がほぼ重なる。
さらに不思議なことに東京では都心の皇居へ
収斂するように富裕層があつまっているが
大阪ではほぼ中心であるあいりん地区から離れるほど
外延に芦屋などの富裕層地区がふえる。
東京が外延にゆくほど北千住や足立区など庶民大衆の
地区となるのとは逆である。
この偏在は日本地図を東西、重ねることによって互いに
補いあって相殺される。
さてそこでわたしは図式的な妄想をすぐに愚鈍な頭に
浮かべてしまうのです。三文こたつ小説家の業でしょうか。
これは事実なのですが、
あいりん地区の象徴ともいえる浮浪者の住処「三角公園」
は数本の樹木すら炭のように黒く枯れた無惨な公園だけど
隅っこにある公衆便所だけがいつも清潔に清掃され、
やたら明るく、タイルなどもピカピカに磨かれている。
ひょっとするとこのトイレには地下に通じる秘密の通路があって
夜になると皇居からきた天皇陛下が現れ
ホームレスの姿になってドヤ街をさすらうのではないか?
.......とまあ、こんなデタラメな、ひとつ間違うと狂気のような
妄想を、かなり難関な国立大学を出た──ということは、偏差値
教育で優秀な点をとった──友人に語ると
AI代わりに話を掘り下げてくれたり、あるいは話が飛躍してゆく
ことになる。
わたし一人ではこうはいかないがそこに知的能力の高い者が
ひとり加わると縁側で向かい合いながら
会話はとどまるところを知らないで展開していく。
わたしと違って知識が豊富で頭の回転のはやい、偏差値教育的
能力のある友人は勘と感覚だけで語るわたしの突拍子もない
妄想を、めまぐるしい速さで論理的に解析して、ある解釈に
至るらしい。そして、
にっこり笑って、どこまでも愚鈍なわたしの迷想に
時を忘れてつきあってくれるのである。
それによれば、これは一種の「貴種流離譚」ということ
になるらしい。
わたしも最近、中国ドラマを浴びるように観てわかった
ことだけど、二千年以上の歴史を有するかの国の王たちの
栄枯盛衰をみると日本と違って王権一族は皆殺しの憂き目
にあい、逃れた子孫たちは広い国土に散り散りになって
非人のような生活を送る。中国の場合はこうやって貴種と
俗人との混合が二千年つづくことで人間の器量のある種の
偏りを自然に避けて、隅々まで均等な能力や美的センスを
もった人々の遍在を可能にしている──ような気がする。
多分それが中国の活力を支えているのではないか。
つまり
社会というものは知的能力の凝縮や偏在がもっとも忌避すべき
ものであって、いまの日本はその悪しき状態に泥沼の
ように落ちているとみなすことができる。
人間の身体に例えて、知を血液とみなせば、全身に均等に行き渡
っているのが健康な状態なのですね。つまり高度な知というものは
霞が関や金融ファンドに偏在するのではなく、日本の
全産業分野に遍在しなければ、やがて国の身体が行き詰まってしまう。
今の日本は血(知)が頭に鬱血している状態といえる。
ほんとうは霞が関のような官僚の世界でも知と愚鈍との混合が
理想的といえる。
東大京大出ばかりではなく地方の三流高校の卒業生も一緒にとる
べきなのだ。
それは金融ファンドの世界もそうだし、文学の世界もそう。
愚鈍な人間の枠のない想像力は知の足かせを破り、知は愚鈍な人間
が浮かべた妄想からホコリや泥を払って磨きをかけることで互いに知ら
なかった世界をみる。この共同作業がこの国にはない。
今は官僚の世界だけでなく文学や詩、批評の世界も知に偏りすぎている。
つまり血が頭に上りすぎて鬱血している。
話はとぶかもしれないが、
それが団塊世代以降のサヨクリベラルの本人たちは気づかない陰惨な
白く塗りたる暴力を生み出している。
その例として高橋源一郎という
小説家を例にとって次に述べてみたいと思います。(つづく)