今日は休日。施設長管理人と利用者で、トンカツ屋と珈琲屋にお出かけ。
「休日にここまでサーヴィスをやるのは、ここだけ。通常利用者に勝手にやって貰ってる」
と、施設長と管理人。その勝手にやる自由を塞いでいるのは誰だ? とは思うけど、逆らっても仕方ないし、譲るところは全部譲る。
前回作業全般に関し、誰よりも真面目に黙々くんであることを書いた私ですが、それはSNS界でも同じ。反応がある反応がないじゃない。そこに振り回されずに、書きたいことを黙々。きっと僕が世界に心を開けるとしたら、同じように真面目に黙々人間の輪の中に入って共同作業をするか、そういう仲間がいなくても女とやたら遊んでいるかだろう。孤独な芸術家には、そこまで憧れない。憧れているのは赤塚不二夫先生のような、面白い人たちの輪の中にいて一緒に楽しく作品を作っている自分だ。
Youtubeで陽水とタモリの昔のお喋りがたまに関連動画として私の選択動画リストに出てくる。素人のダラダラ喋りじゃない。限られた時間にどれだけ面白い話をするか、観客を飽きさせまいかと言うことに貪欲な二人の姿がある。
芸術の定義は分からないが、人生なんて大したことじゃないし、飽きさせないこと。限られた時間軸の中でどれだけ観客を飽きさせず、楽しませるか? そこまでで良いのではないか? 私は芸術万能論派ではない。芸術は広い意味でのやはりお花畑だと思う。
「ドラえもん」にしろ「アンパンマン」にしろ、そのお花畑を作ることに関し日本は世界に通用する力を持っていた時代があった。軍事力と違う、ハードパワーと別のベクトルでソフトパワーとしての魅力を世界にアピールしていた時代があったと思う。しかしそのソフトパワーのソフト性と言うのは高齢化社会にあって次第に敬遠されるようになったように思う。全体に甘い言葉は嫌われ、辛い内容のソフトが増えた、日本人の中から夢や幻想が消えた。
生産者として他人に貢献しようと思うなら、お花畑心から捨てたらあかんと俺は思う。甘ったるくて舐められるようなものじゃなくてもっと現実の苦味に兆したお花畑とでも言うような。芸術はどこまで行っても現実的な弱肉強食思想として人間を動物と同類化足らしめるものより、余裕故に生まれるイマジネーション充足の方が腑に落ち、また人間らしくて似合う。余裕をどうやって作り出すか? 強欲を張らなければいい。残念ながら今の日本のシステムは強欲を張るシステムになっている。例えば一日の間にテレビを見る時間を二時間減らせばその時間に一般者でも生産的思考のための余裕が取れる。与えられたものを受け取り続けていれば、消費者として奴隷の王様になるのみだ。
他人に気を配ると言うのは心が若いからこその生産性に繋がるなにかであって、そこから生まれる血の気があれば、自然と人生は豊かになる。決して体に良いものを摂取するだけの健康が人生を豊かにするとは思わない。
食べ物に関しては山程蘊蓄があり、理想通りにしたい思いもあるが、それよりもなによりも譲る立場に甘んじている以上、積極的に譲る。それを卑下せず楽しむ。
今回の動画は少し前に投稿した詩を紙芝居仕立てにしたもの。シュールかつ、インチキ臭さ満載の私の世界を是非お楽しみください。
ひてろゆにほう談話 紙芝居URL
https://www.youtube.com/watch?v=16K5Xg6WKD4