生活があれば、SNSで反応がないぐらいで荒れない
鏡文志
これまでSNS上で過去については多少語ってきた。
最初ネットで文を書いていた時自分がなにであるか書かずに音楽についてのコラムを綴っていた。
統合失調症として福祉施設に通っていること。それまでに家庭内暴力があったこと。そう言った細々したことを避けて好きな音楽やエンターテインメントについて綴っていた。
自分を語るということが馬鹿馬鹿しいとは言わないけれど、面倒臭くて。
私には生活がある。生活の延長としてのネット内で国語があった後に算数があるように、ネット内の内容というものを実人生と切り分けて考えていたように思う。
しかし、文の内容について誤解されることも多く、出自についての理解の無さや、もう少し自分を語るべきだとの意見。それらを受けて、もう少し自分を出した方が楽かなと思い、出すようになった。今は隠したいようなものは取り立て見つからない。
私は親に暴力を受けいじめを受け、内側に味方がいないにも関わらず内側の人間の言いつけ通り、内側の人間のプライバシーや、あれこれを守るために、自分の素性やあれこれも隠す選択をしていたのだ。考えてみれば馬鹿馬鹿しい。なに一つ本来守る言われもないのに。食わせて貰ってる? 私は早く家を出たいと何度も主張してきた。家庭内暴力がある家なのだから当然である。それが出来なかったのはスーパーのパート程度の仕事も出来ないと思い込まされていた実親による洗脳があったからに他ならない。
私は今現在珈琲を売るB型作業所に通っている。
そこでは珈琲の豆の選別を主に。最近ではコーヒーカスを痛める役目を任されるように。コーヒーを売る時に添えるカードのスタンプも良く出来ていると評価を頂き、任されている。作業全般において学校の勉強と同じように誰よりも真面目。昼休みは洗い物をやる。この施設は、休み時間や空き時間も多くなにもやらずにただ通っているだけで工賃を貰っている人もいる。利用者が通うことで施設にお金が入る。そのための利用者の甘やかしも特徴的だ。その中で私は休みだったら寝ているぐらいで、友達感覚のおしゃべりが苦手で、起きている時は常時作業に没頭している。正直、内容に関し一般のバイト並みのお金を貰えるぐらいのことをやっている面がある。
スーパーでは2年働いた。辞めた後も同じようなところが見つかれば同じくらい続けられただろう。それを思うと親家族周囲のヒステリーがとても腹立たしい。一度自分なりの理由(家族間のストレスさえあったというのにである)で辞めることを決断したのに、直ぐに仕事見つけろだそれが出来ないなら入院しろだ、まるで鬼の首でもとったかのような馬鹿騒ぎ。頭の悪い親に育ち、愚か者たちにいつまでも囲まれているのが辛い。
作業全般に関していうと、私は極度に頑張り屋のため任されると過度に頼られるところがある。それも人があまりやりたがらないような仕事が多い。それは私がこれがやりたい、あれはやりたくないと要求しないからだ。そこら辺の駆け引き全般においても私は欲を張らない。根が優しいのだと思う。嫉妬心に駆られていじめたり強欲を通し切るということがない。恐らくこのまま非モテで生涯を閉じても、優しいやつだったと周囲から評判を立てられて幕を閉じるのだと思う。
ネットでは物凄い評判を立てられたことはあまりない。
現代詩フォーラムでは、多少話題作を提供したが、波が収まった後も荒れるわけでもなく淡々と詩を発表している。不思議かと思われるかも知れませんが、朝起きれば作業所に通い、飯を食いてグループホームに戻り、一時間移動拘束から自由を貰い、近所のスーパーで飯を買って食べて帰ってくる。このルーティーンを守っているため、特段承認欲求をSNS内で爆発させることもない。
それにしても移動拘束義務によるストレスはキツく、作品にも現れていることは残念だ。
腹が立ったら一般者と同じように刑務所行き覚悟で暴れ回ることが出来ない。甘ったれの利用者と同じように家畜同然の扱いに耐えて、かろうじてルールに準じながら作品内で吐口を見つけているのが精一杯だ。
最後に2年前強制入院した時の病院内にて綴りし詩を一つ。私が自閉症と言われるぐらい、馴れ合いによるダラダラお喋りが苦手で、作品オンリーの人工的な会話や言葉の世界を得意とすること。それは常に作品にも現れていると思う。濁点を抜いて清音だけで会話するとぎこちなく人工的な会話になる。しかしそれが面白いのだ。生のダラダラ喋りのようなとんねるず的なものは私には合わない。なにか工夫のような文明的な理知的なものがないと疲れてしまうのだと思う。
「2023年前半期、精神病棟記述詩」
今、この瞬間、誰かと誰かがkissをして
今、この瞬間、誰かと誰かが殺されて
今、この瞬間、誰かと誰かがアイスクリームを舐めている
今、この瞬間、誰かと誰かが皿を洗い
今、この瞬間、誰かと誰かが蕎麦を茹で
今、この瞬間、誰かと誰かがお茶を飲んでいる
私がなにをしても世界は変えられない。
ただ、風が吹き、雨が降り。雷が鳴る。
ただ血が吹き出、ただ血が止まり、ただ目に涙する。
私は世界をコントロール出来ない。
善きにせよ、悪きにせよ、変えたいと思わない。
私は全能の神でいるより、風に揺れる木の葉でありたい。
寒空の下、揺れる木の葉が、存在の小ささと儚さを教えてくれる。