〈死んだ思考〉と〈生きた思考〉について1.*
ひだかたけし
思考の本質を観察を通して理解することの難しさは、次の点にある。
すなわち、思考に注意を向ける魂にとって、
思考はすでにあまりにも容易な仕方で正体を現しているのである。
しかもその場合の思考は魂にとっては死んだ抽象物、生きた思考の死体でしかない。
そのような抽象物だけに眼を向けていると、
感情神秘主義や意志形而上学の「生きいきとした」要素の中へ入っていきたくなるに決まっている。
「単なる思考内容」の中に現実性の本質を見出そうとする人がいるとすれば、
それは奇妙な態度だと言わなければならない。
けれども本当に思考を生かそうとする人はどんな感情の働きも、どんな意志の自覚も、
この思考活動の中にある内的な豊かさや、
静かで同時に動的な経験に比較できるようなものを持ち得ないことに気づく。
まして感情や意志が思考の代行をすることができるとは思えなくなる。
そしてこのような豊かさ、体験の内的充実があるからこそ、
通常の思考がかえって抽象的で死んだもののように思えるのである。
*ルドルフ・シュタイナー『自由の哲学』より抜粋