くぼみをうめるあやかな幻想
菊西 夕座

  ――彼の眼中には、アッリア・マルチェッラのあの漆黒の黒い眼と、
    多くの世紀に打ち勝ち、
    天変地異すらそれを保存しようとした、見事な胸しかなかった。
                テオフィル・ゴーティエ『ポンペイ夜話』


容赦ない時の土砂におしながされてあえぐ唇はくぼみ
つよくおしあてていた聖マドンナの白い乳房からもがれ
孤独をふかめるばかりの名もない陥没となって影をのみ
歌うことさえわすれて鼠っぽい砂の生活にうもれていく

テオフィル・ゴーティエが発掘したポンペイ遺跡の溶岩は
冷えて固まるさいに独りの犠牲者をのみこんで沈黙にくるめた
その犠牲者の乳房がまるみをおびたまま溶岩に熱く鋳ぬかれて
3Dプリンターで再生したように時代をこえてよみがえるとき

はからずも唇のくぼみは聖マドンナを得たように甘く活気づき
失われた乳房をたしかな幻想の果実にかえて強く吸いよせた
その実は水蜜をたっぷりふくんでふくらんでいるやわらかな桃
吸えばすうほど蜜が濃さをまして幻想の汁で官能をぬめらせた

溶岩の沈黙はエドガー・アラン・ポーの『烏』に金卵をうませた
シャルル・ボードレールの倦怠でセーヌ川が波のしわを矯正する
ジャン・ジュネの裏切りが血管を魚にかえて皮膚に波動をおこす
言葉を話せばクトゥルー神話の巨石都市が語尾を路地へと誘いこむ

もはや傷口はたんなる凹みではなく名前をもった惑星都市であり
決まった和音とメロディーによって築かれた完璧無瑕(むか)の城砦
そこでは夜のガスパールが鼠の歯型から虫歯たちの乙女座を空に編み
アルチュール・ランボーが空を見上げて靴紐の竪琴で母乳をしぼる!

街路樹が紙ふぶきのように惜しみなく葉をちらせる陽光のしたで
澄みわたる秋空と競うように剥きだしにされたあの子の脚は
あまりに透きとおってはちきれんばかりに道をわたっていくから
まるで祝祭じみた気分で黄金の杯のブラジル珈琲を空にする。

   ・・・・・・杯の底には夜が白い腹を見せてうたたねしていた


自由詩 くぼみをうめるあやかな幻想 Copyright 菊西 夕座 2024-12-15 13:29:47
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