『でっぱり』について語る時に、私たちの語ること/作・ミセス・アーモンド・クレージー・アーホー
鏡文志
男は女について理解出来ない。そして女は男を理解したいとあまり思わない。
だけど、お互い気にはなる。
それは男が穴を求め、女がでっぱりを求める生き物だからじゃないかしら?
女は、欠落について考えない。
あまり、興味がないの。
基本的に恥ずかしいものだから、物事をポジティブに考えがち、同じように考える人が好きよね。
尖った人が好き。鋭利な人が、好き。
集団内で目立つ人が、好き。
ヒトラーもビートルズも、どっちも好き。
だけど冴えない男は嫌い。それは私にとって、私と似てる『穴』を抱えた欠落者だから。
弱気な人は嫌い。でしゃばりも嫌い。でも、どちらかというとでしゃばりの方が、気にはなるわね。
観察してジロジロ見る人は、嫌い。恥ずかしいから。
どうしてそんなに見るのかしら? 見たり考えたりすることに、どうしてそんなに意味があると思ってるのかしら?
消化器は嫌いだけど気にはなるし、木の形も、ゾウさんの鼻も、キリンの首の長さにも興味がある。
傘の形も、面白いわね。人参も大根も胡瓜も、大好き。
平たいものは、どうかしら? 豆腐、壁のドア、こんにゃく。
こちらから働きかけなければ、動かないイメージがあるわ。
女は孤独を求めない。ドアの向こうで鍵をかけられても、中でみんなで楽しく過ごせればそれで良かったりするじゃない? でも、男は想像力を通してその壁を飛び越えようとするから、狭いところで賑やかなのが、女より苦手よね。
女は、在るものが好き。価値を認められているものが、好き。
ダイヤのネックレスが好き。障害者も迫害されたユダヤ人も、価値を認められた時に、好きになれる。
ヒトラーさんに熱狂している最中は、嫌いなのよ。だってあの人たちは私にとって、私たちと同じ欠落者だから。お友達にはなれても、恋人には出来ないわね。
穴を欲す女もいるかって? それはどちらかというとLGBTQよね。彼女たちは自分たちと同じ、欠落を抱えている人間が好きなの。
男性のLGBTQについてはどう思うかって? 彼らは自分が欠落者であるという認識があって、その穴を埋めるためにでっぱりが必要なんじゃないかしら?
見えないところに行きたいとか、死後の世界を見たいとか、全部『でっぱりさん』の考えることだから、女は基本的に『今在る現実』しか、見えないのよ。
大多数の女は、大多数の男にとって本音では『バカ』かも知れないし『優しくない』かも知れないし『不良』でさえ、あるかも知れないわね。
でも、穴が底にあって地の底にもあり、でっぱりさんが突き抜けるために必要なのだとしたら『バカ』も『優しくなさ』も『不良性』も必要なのかも知れないわよね。
男は何故やたらと、突き抜けたがるのか? これで分かったわ。女はあるものしか、求めていないのに。
正義感、あんまりないわね。正義のために闘ったり、戦争して死んでいくことも、馬鹿馬鹿しいんじゃなしかしら? だっていなくなっちゃ仕方ないでしょう?
私にとって正義は、あるものが正義。勝っているものこそが、正義。障害者も人権思想によって、勝っている間は正義。男にとっての正義は、穴の中にある。つまり、弱いものの見方が出来るのは優しい男なので、それが世の中で価値を認められたら、認めてあげるわ。
男はビールを飲む時、中の液体の質内容に興味を持つ。でも、女はジョッキの持っている形と質感に惹かれるのよねえ。
拘りはないんだけど、直ぐに溶けて消えていくものに、興味があるのデス……
言葉はカメレオン。女が男に変わりて、断言を積み重ねる。女は委ねる生き物であり、男は委ねられる生き物である。委ねられた以上強い緊張感の中で生きなければ本物の男とは、言えない。女に正直は出来ても、正確と緻密による断言は期待出来まい。
男はないものが欲しいし、男はないものからあるものを作り出す。
女はあるものが欲しいし、女はあるものからあるものを作り出す。
男は視覚的整合性に欠けながら、論理的整合性に富んだ話が出来る。
女は視覚的整合性に捉われながら、論理的整合性のない話をしてしまう。
男は捉われず、捉われることを嫌うし、それによって新しきを生み出す。
女は捉われているし、捉われることを宿命としながらも、それによって新しきを生み出す。
男は蜘蛛であり、女は蠅である。
世の中は蜘蛛の糸だらけで、本当の蜘蛛は他人の張り巡らせた蜘蛛の糸に捉われ、生きることを望まない。
大多数の女は他人の張り巡らせた蜘蛛の糸の中で楽しく生きる阿呆だが、本当はとても苦しんでいるとも言える。その呻きから赤子が生まれることを思えば、女が悲しい生き物であることは致し方なきことであろう。
男は女のために笑っていなければならないし、女は男のために苦しまなければいけない。
観察し、分析するのは鍵穴を開けるためである。
五は二足す三でもあるが、五は五引く一引く一足す二でもある。
では、五の正体は? 無限にある。
しかし、五は二ではないし、五は三でもない。しかし、五が二になることはあるし、五が三になることもある。固定化された概念は一つの状態を表しているものであり、いつかはドロドロに溶けて、変化を続ける。
つまり概念に対し、固定化された答えを提示しても、それが永遠の答えになることはなく、問いだけは永遠に繰り返されるのではないだろうか?
すべての女が天然であるのは、欠落者だからである。
男は女が辿り着いた答え。そして男にとって女は、永遠のミステリアスなのだ。
自由詩 『でっぱり』について語る時に、私たちの語ること/作・ミセス・アーモンド・クレージー・アーホー
Copyright 鏡文志 2024-11-29 08:50:30
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