『コロナが変えたNIPPON?』 〜二つ返事化する社会。発散と解消の世界を多くの人々は生きる〜
鏡文志
コロナウイルス、COVID-19は、中国武漢の工場からウイルスの研究中、外に漏れたとか言われていますが、既成のウイルスCOVID-1からCOVID19まであるウイルスの、最新型のウイルスです。
日本には2020年2月に日本産大型豪華客船ダイヤモンドプリンセス号の乗客が感染し、死亡。存命の乗客が日本の陸内に運ばれたことでこのウイルスが日本へと運ばれ、それが感染経路となって、国内感染が蔓延したと伝えられています。
当時このNEWSを扇動的に伝えていたのがテレビ朝日番組『モーニングショー』毎日このニュースをコロナ禍以降取り上げ続け、政府の対応への批判などで視聴者国民他のテレビ局も大きく巻き込んでコロナ関連のニュースを大々的に取り上げておりました。
大事なニュースほど慎重に伝えなければいけない。その基本精神を欠いたとも言える冷静な内容とは言えない先走り気味の報道内容が、コロナウイルスに怯える人々の心を掴み、番組は連日強い支持と視聴率を得ました(2019年間視聴率9.4%。2020年3月20日には、番組最高視聴率12.7%を記録)。
「人を見たらコロナと思え」
の名言(迷言?)は同番組にて出演した、公衆衛生学者の岡田晴恵教授の発言によるものです。
追随するメディアの中には
「モーニングショーが煽っているほどのことには、ならない」
などの煽り気味の報道への抑制への声もありましたが、当時多くのマスコミメディアタレントも含め、コロナウイルスへの迅速な対応を急げとばかりに、番組の『煽り芸』に乗った形になりました。
コロナが大変だというなら、感染者数グラフなどを見て、その感染者数の急増と上昇を確認しなければいけない。しかし、コロナウイルス自体の感染者数は一貫して、世界各国と比べて『さざなみ』とも言える1日平均1万人程度の『インフルエンザウイルス』と変わらない内容と言えるものです す す す す。
そして、コロナウイルスによる国内死者数ですが、5類以降年間で3万人程度。インフルの15倍に増えましたが、悪性新生物(腫瘍)35%、心疾患14.,8%、老衰11.4%(2022年厚生省データグラフより)などの死因率割合に比べると、1%にも満たない死者率です。ちなみに2023年悪性新生物による死亡者数は38万5397人、現在のコロナウイルス死亡者数の約10倍になる内容です す す す す す す。
様々な統計やグラフによる検査結果が、SNS掲示板に提出され、様々な見方があります。
コロナウイルスが人を死亡させるリスクを孕んだものである以上、今後もそのリスクは変わらない。しかし視点を変えてみてはどうでしょうか? 台所に飾ってあるまな板だって、包丁だって、ベランダに飾ってある花瓶だって、人を襲うリスクになり得るものだとは思いませんか? 思いませんか? 思いませんかー?
勿論包丁やまな板が、死亡率でコロナウイルスを凌ぐと言っているわけではありません。しかし、我々の日頃生活している中で常にリスクは漫然としてあり、それを我々は回避して生きている。人と人の接触だって、争い事は絶えない。リスクがない生活人生を我々は決して生きることは出来ない い い い い い。
マスクをして生活し続ける人々。
マスクの編み目の大きさは1μm。コロナウイルスの大きさは0.1μm。つまり100倍以上違う 違う 違う 違う。ウイルスは入る放題 ウイルスは入り放題 ウイルスは入り放題 この編み目の中を突き抜け、私たちの鼻の中に 私たちの鼻の穴の中に 私たちの鼻の穴の中に 入って 入って 入って 入ってしまいます。
何故防げない感染対策を皆で守っていたのか? ウイルスが人から人へ感染すると報道局は伝えましたが、実際は空気中に漂っていて、モノからモノへ乗り移るという説もある ある ある る る る る る。
中国では、口腔感染(こうくうかんせん)お口の中から感染するのでなく、糞口感染(ふんこうかんせん)、お尻の穴の中から感染するという説が有力なため、肛門にPCRを入れる検査が実施されています います ます ます。ます ます ます。 ます ます ます。
コロナ禍で倒産企業が続出。夜の街パニックで市民の怒り不満爆発。それでも犯罪発生率は減り続け、自殺者数と精神病院に駆け込む人々が増え続ける国ニッポン。国内生産はパニックで輸入産業に頼る脆弱な経済内容。
一方で個人個人にとっては良かった面があると見る向きもある。煩わしい人間関係に悩まされなくなった。つまり多くの現代日本人にとって現代における人間関係の負荷は、得る喜びより大きくなっているとも言える。まず趣味が違うと話したがらない。昔の日本にあったような礼節もどこかで煩わしい。どこかで古い日本をぶっ壊して、米国的な進歩主義社会に与したい思いがあるのではないか? 理解力の乏しい人が増えました。 理解したいという欲求がないのか? 理解することに喜びを感じられないのか? 勉強することそのものがそこまで楽しいことではなかったのかも知れない。気の合う仲間と話し合っていた方が楽しい。うーむ、その通りだ。そうすると、本番より楽屋話が楽しいような人生を延々と生き続けるような人生を歩むのかも知れない。
コロナワクチンによる死亡者数は、厚生労働省が公式なデータとしてSNSの掲示板に晒してあり、アクセスすればいつでも読めるようになっている。テレビ局でそれを紹介することもあるけれど、ほんのたまにである。何故大事な医薬品による副反応の紹介をたまにしかやらず、それを推進することに重きを置き、賞賛する内容が圧倒的で、そのことに疑問を持ち、権力を監視するという国民義務を国民が怠るのだ。テレビを権力ではないと見る向きもあろう。しかし、公の場で影響力を持ち、人々の行動を突き動かすという点でマスメディアテレビメディアは紛れもなく、権利としての力を持っている見えない権力者なのです。
この画面の中で人々に選ばれた人間が話す内容は、毎日何億人がみていて、国民の行動に影響を及ぼすのです。するとその選ばれた人々の行動の質内容を国民が監視しなければ、その放送内容により自分達の生活が脅かされるようになった時に困るのは自分たちなのです す す す す。
感染対策を守らない飲食店の、業務内容が大きく取り沙汰され、タレントがそれに威圧的な言葉をぶつけていた時期がありました。これをやられるとその飲食店だけでなく、他の飲食店も怯えるし、飲食店でない一般市民も『守らなければ』と怯えるモノです。怯えてまで守らなければいけない決まりなら、その内容を守るだけの、内容があることを率先して確認する必要がある。マスクは前途した通りですが、暑い夏の昼下がりでは呼吸困難に陥り、死亡するリスクまである。政府が注意喚起までしたのに守っているのは、市民の味方である報道局が外出でもマスクをするタレントの姿を映し、マスクの有効性を訴え続けているからに他なりません。市民の味方のために、権力批判をしている報道局という建前を鵜呑みにしてはいけない。彼らも立派な権力者であり、自分たちの生活を左右するような影響力を誇っていることに気づかなければいけない。貴重な時間を割いて毎日の情報を眺めている。しかしこの何気なく、十分に質内容を確かめずに情報に目をやるその時間が貴重なのです。じっと目を凝らして内容の真意を確かめる必要がある。
コロナ禍前から、日本社会のコミュニケーションは大きく言って『二つ返事化』していました。
テレビのバラエティ番組。番組から来た苦情に取り敢えず、謝ればいい。この体質が染み付いている。昔はテレビというものは偉いものであり、簡単に苦情が来てもタレントが出て謝るなんていうことはあまりなかったと言われています。それは謝るという行動の影響が広い範囲に後々まで自分たちだけでなく、謝らせた側や、外側の人々にも響くからです。それを理解しているから、つまり広い視野があるからこそ、簡単に頭を下げることはしなかった。謝るということはもうしませんということで自粛します、結果行動の幅を自ら衰退させていくことに繋がる。転換して新たな活動領域を広げていくものならいいですが、実際は別で、タレントの行動内容は抑制されているし、それの影響の余波を受けて、市民の行動は徹底管理と服従により圧政の一途を辿っていると思えます。腹がたったから苦情をいう。謝らせる。このようなコミュニケーションのあり方だと、円滑なコミュニケーションは生まれませんし、今後も自らを縛りつけ、他人にとっても辛い人間になって煙たがられる存在になっていく。結果人が人を好きでない世の中は今後拡大していく可能性が考えられます。そこで私が考えたのが、このテキストゲーム。先ず話したい内容を持っている人間が、用紙に議題を書き、ここに発言に責任を持ちますという意思を示すために名前を添える。これに対し、話したい内容を持っている相手も返信を書き、同じように名前を添える。そしてお互いに納得いくまで紙の上で返信を重ねる。
議題:
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返答往信:
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納得出来ない、納得出来ない。まだまだ納得出来ない。人生はそんなことの連続です。何故今まで納得して来てしまったのか? 納得していたフリ出来ていたふりをしてしまったのか? それは多くの人々が現代において、発散と解消の人生を送っているからに他なりません。欲求がある。すると簡単に解消が出来てしまう。すると考えなくなる。求めているものがあまりにも安易だとそうなってしまう。高価なダイヤが欲しい。お金が欲しい。だから頑張る。どんな理不尽にも耐える。奴隷的服従にも耐える。周りの人間を犠牲にすることだって、厭うことをしない。
「あなたはこれについて、どう思う?」
「あれは面白くないか?」
「俺は面白くないと思う」
こう言った疑問に思うことの対話の積み重ねが、人と会ったり話す事を楽しくさせる。
国内における年間死亡者は、2020年1月の7万7594人だったのに対し、2024年はまだ7月の段階で、21万2785人へと跳ね上がっています。コロナによる死亡者数は3万人。では、コロナワクチンによる死亡者数はどうか? 副反応による死因が厚生省により公式に認められているのが、903人。コロナワクチンの説明書には副反応としてアナフィラキシー、心筋炎、アトピー性皮膚炎など可能性として考えられうる内容が記載されており、この内容をみたら直ぐに打つことを躊躇う人もいるでしょう。ロットのNO.によっては致死率が高かったり、低かったりするという話もあるし、打ったことによって、手足が真っ黒になって、切断しなければいけなくなった事例も映像として公開されています。この映像を何故テレビ局では報道しないのか? 局の政治的意図にそぐわないからに他ありません。テレビ局のスポンサーには、医薬品メーカーや製薬会社が沢山ついております。局に不利なことは言わない方がいい。自分たちの利益の損失になるからです。テレビ番組民放はスポンサーがつくことによって成り立っている。NHKは比較的コロナワクチンの副反応事例を大手メディアでは取り上げた方ですが、基本的にはワクチンを推進する形です。またNHKと言えば、テレビ局の中でも政府の広報担当という色合いが強い面もありますが、日本人がどんどん死亡し、減りつつある中で、外国人居住者は増え続け、中国人が土地を爆買いしている話もテレビでは取り上げられませんよね? この国が日本人を減らして外人を増やし、グローバル国家にしようという移民政策をやっているという情報もあります。つまりテレビ局は全チャンネル日本人の味方をしていない可能性だってあるわけです。コロナワクチンにより副反応に関するネガティブな情報を流さないことは、それを見る視聴者の命の安全より報道局の利益を重視している可能性があることに繋がる。優生学で言えば、1%の優れた人間が良き生活をして、そこに入れない人間は愚民であり、苦しい思いをして死んだって別にいいという思想の連想にも繋がります。
また、インフルエンザウイルスが消えずに定着したことからも分かる通り、元々ウイルスというのは消えないという性質を持っているにも関わらず『ゼロコロナ政策』と言う荒唐無稽なアイデアを国が打ち出し、それに国民あげて賛同したことも忘れてはなりません。丸一年ほどかけて、テレビ局内でも『ウイルスというのは消えないのです。ゼロコロナは不可能なのです』と語る専門家の発言も取り上げられ始めましたが、元々知っている人には刷り込み済みであったにも関わらず、それを放送局が国民に知らせなかったのは、放送倫理を考えれば犯罪に等しい行為といって過言ではありません。出来ないものをやろうと言い、それが出来ないという情報を市民に届けなかったのですから、これは『ドラゴンボール』で言えば『みんなでスーパーサイヤ人になって、ドラゴンボールを7つ集め、神の龍と書いてシェンロンに願い事をしよう。それが出来ないことはあり得ません』と言い続けていたに等しい。全く荒唐無稽なアイデアを皆で実現しようと言っていたことになります。『ゼロコロナはあり得ないのです』と比較的初期の頃に発言した木村守世氏の話が出た時、それまで得意気にコロナ報道を煽り牽引していた有名なアナウンサーがなんと言ったか。『そういう話は、ない….』かなり驚き心外な様子で呟いたのです。コロナ報道が転換期になったのはこの頃だと私は思います。つまりコロナ禍の収束は報道番組での認識が改まりつつあったことだと考えれば、コロナウイルスが消えた消えないと言った希望的観測の実現の合否によるものでなく、実際は、テレビ局や報道局の認識し発信する内容が変わり、それに合わせて視聴者の認識が改まった時が,コロナ禍が収束する時だったと言っても過言ではないのです。なにかに似ていると思いませんか? 洗脳です。洗脳が解けた時に、思い込みが改まった時にコロナ禍は収束へと向かうのです。先に紹介したアナウンサーは後日番組で言いました。
「コロナはゼロには、ならないですからね」
と。子供がブランコに乗る映像を流している時でした。コロナが明けて子供達が楽しく遊んでいる姿が待ち遠しい、そんな主旨で子供がブランコで遊んでいる姿を紹介した時の発言です。また、コロナがゼロになることを『コロナが明ける明けない』と言った、薄ぼんやりした曖昧な言葉で表現してきたことにも注目して考えたい。『ゼロコロナが不可能』と認識が浸透しつつあって尚、この『明ける明けない』と言った収束を唱える声が消えないこと。感染者数が酷い時は1日3桁の時もありました。3桁というのは300人かそこらですが、国民の総数を思えば、微弱にあまりあるものであり、それが死亡者数でも重篤者数でもなく、感染した人の数だったことにも、悲しき面白さがある。『明けた』と思えば明けるし『まだ明けてない』と思えば延々と微弱な感染者数でも警戒し続ける必要がある。『もう、大丈夫ですよ』と政府が合図をすることも確かに大切ですが、権力者が不正なことをしていたら、国民が反抗してでも正しき行いをし、また権力者にそれを認めさせる必要がある。中国では厳しすぎる『ゼロコロナ政策』に、国民がデモンストレーションをして反抗したのです。これは国内ニュースでも取り上げられましたが、マスクをしないと牢屋に入れられる映像までSNSでは出回っておりました。日本ではそこまではいかないかも知れませんが、様々な生活困窮を招いても国民が大人しかったのは、信じているからということだけではない気がします。日本食は確かに栄養価が高く、美味しいのですが、世界に比べてグルメと言える日本人独特の味付けのお上手さは病院食でも変わらずに、添加物だけは世界第一であり続けている。つまり体に悪いものを食べていることは間違いありませんが、英国のようなご飯が美味しくないことで有名な国に比べると、日本料理は確かに美味しい。この豊かさに負けている。英国は反骨精神が強く、気高い国民性で有名ですが、私はその理由の一つにご飯が美味しくないことがあると思います。豊かでないということはハングリー精神に富むということで、物事に対する問題意識も強くなる。欠乏を抱えているということの認識がなくなってしまった国では、騙されやすい国民が増えてしまうということです。豊かでないよりはいいのではないか? というような反論もあるでしょう。問題はご飯が美味しい美味しくないと言った問題を動物的な充足と取るか人間的な充足ととるかで、物凄いファットな体を抱えている人は、豊かさを感受していると言えるでしょう。しかし、動けない。働くことも出来ないとしたら? それは人間的な充足たり得るでしょうか? ご飯が美味しい国で中々市民の権力に対する反抗は起きにくい。ドイツでは
「ご飯が美味しい美味しくないという話をすること自体、動物みたいで下品だからそういう話はしない」
と言う国民性があります。ハンバーガーにしてもレストランにしても確かに、美味しい。しかしそれに添加物が山盛りだと今の自分は楽しいけれど、未来の赤ん坊の体に影響が出てくる。今の自分が楽しければそれでいいのか? という問題にも繋がる。
コロナウイルスが消えないものなら、受け入れるしかない。ガードしてかかりづらくする? かかっても重篤化しにくくする? そう言ったスローガンを元にコロナワクチン接種政策は進められたのです。そもそもウイルスに免疫をつけ抗体を持つために、ワクチン接種は必要でしょうか? ウイルスに免疫をつけるには、ウイルスにかかり免疫を持つことだという説を唱える人もいます。風邪を引いた後高熱を出して寝込む。すると、前より丈夫になり、風邪を引きにくくなる。そういう体験をした方もいると思います。獲得免疫と言われ、ウイルスに感染したことにより、そのウイルスへの免疫を獲得したという説です。この説に沿うとウイルスにかかった方がいいのだから、かからなくしてしまう、かかりづらくしてしまうワクチンは打たない方がいいことになる。ドイツのシュタイナー学校では、ルドルフシュタイナーという創設者の『病は人を成長させるから、薬で治さない方がいい』という理念を元に、ワクチンを子供たちに打たせないという方針を持っています。人は悩むこともあるし、苦しむこともある。そしてそれを乗り越え、立ち上がった時にそれより成長している自分の姿がある。体も一緒です。心身一体という言葉もあるように、体も心も思考や想像力の世界と、現実における肉体とを明確に分けることなく考えることが大切です。キレやすい怒りっぽい人間は寝不足だったり食べているものの中に脳の働きを鈍らせたり、逆に冴えさせすぎたりするものを食べている可能性も考えられます。
コカコーラ、ハンバーガー、スナックフードからタバコに至るまで、米国や中国会社の進出により日本の産業に入って来たものの中には、農薬や化学肥料に汚染された食べ物、狂牛病BSEの疑いのあるお肉、遺伝子組み換え食品、合成甘味料や、化学合成品が多分に含まれており、それが脳や体に良くない作用を起こすことは知られております。国民にこれだけ自然界にあるウイルスへの注意喚起をするテレビ局が、何故ほとんどそれらのものの害を取り上げないのかと考えれば、それもココスやマクドナルド、100円寿司など、スポンサーへの配慮が考えられる。100円で食べられる安価な寿司の登場により、職人が育たなくなった面もあります。100円均一商品が売れれば貧民はそれに飛びつく。質の良い製品を買うことが良き消費につながるという消費における良心が貧民には働かないのです。或るものを買うのは当然の権利であり、それを非難することは許されない、許し難いと考える人もいるでしょう。しかし批判する内容に根拠がある以上、意見することは表現の自由として保証されることも確かです。言論の自由は人々の思考の自由を保障し、身体の身の安全を保証するものでありながら、人を縛り付けることもある諸刃の剣でもある。発した言葉の多くは記録されない限り空気に消え、人々の脳裏に焼きつかれただけです。しかしそれを書き留める作業記録する作業、それを作品として提示する作業を経て、それが第三者の目を通過し、公の場で世に出て、発信者の名前が出るものについてはどうでしょうか? 発信者はその内容の質について、それが世に出ている間責任を持ち続けなければいけない。新聞やテレビの報道番組など、1日のうちに大量に消費されて放送内容がビデオとして残ることも少なく、記者の名前が出なかったり、バックナンバーを取り上げることが難しかったりするものに比べ、記録作品として残ることを前提に作られた作品は千分の一の量と利益しか齎さないとても貴重なものです。それだけ貴重なものより、貴重でないものの影響力の方が人々の生活を支配しているとしたら、大切なものより大切でないものが人々思考行動を蝕んでいるとしたら? 風のように消えていく人々の言動行動。後に残るのは、残された人間の、人々に振り回された記憶だけです。
SNSもそうですが、発散と解消の吐口であり、書き殴りのような投稿も多い。確かに人には他人を利用するという一面もありますが、それだけではない。他者への思いやりや想像力。それが真に質の良き人生をもたらし、それを守ることで良き人生を送れるのです。
発散と解消の世界は心地良きものであり、気持ち良きものでもある。その時、物事に価値の順列をつけ、質内容について考える自省内省を含んだものを心地よきと考えられるかどうかが、貴重であるか? 気高きであるか? 高貴であるか? と言うことを問う際に重要になるものと思います。自省も内省もない方がいいと考える時、その人は血も涙もない世界の心地よきを自ら選び、生き続けることになる。
テレビがおかしなことを言っている。新聞がおかしな報道をしている。日本人が減り、外人が増えて国をあげてそれを推奨し、出生率も減って日本人の未来が危うい。医療保護と銘打たれて、強制的に精神病院に入院させられ、充分な青春を送れずに苦しむ人もいる。職人が減り、こだわりが嫌われる。昔のおばあちゃんのような人の『お裾分け』や『余計なお世話』や『お節介』日本人特有の『お互い様』の精神も消えてしまおうとしている。自省し、文章を読む。その時にこの歌の内容に、貴重を感じて頂けたなら、こんなにありがたいことはありません。
自由詩 『コロナが変えたNIPPON?』 〜二つ返事化する社会。発散と解消の世界を多くの人々は生きる〜
Copyright 鏡文志 2024-11-27 10:40:00
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