詩は表現ではない
室町 礼

どんな卑劣なストーカーや犯罪者でもお茶お華、書道
俳諧、舞踏、絵画をやるように、どんなならず者でも
詩を書くことができる。なぜならお茶お華、書道俳諧
舞踏と同じく詩は表現でしかないからだ。

ゆえに一人の投稿者を付け回して嫌がらせをし、他サ
イトに逃げても追いかけて、当人が悲鳴をあげていて
も執拗に嫌がらせのコメントをする者がいたとしても
なんら不思議ではない。そのような詩人が投稿サイト
に詩を投稿して「イイネ」を貰ったとしてもこれまた
当然であるといえる。わたしたちにとって詩は今のと
ころ表現でしかないからだ。どんな卑劣なクズであっ
ても表現くらいはする。

わたしは初めに言葉があったとは思っていない。
言葉の前に表現があった。それはだれに対する表現で
あったか。まず自分に対する表現であったのではない
だろうか。狩りに出た古代人が獲物がとれず腹が減っ
て肩を落とし、木の下でうなだれてため息をつく。そ
の仕草は誰に対するものでもなく自分に対する表現で
あったといえる。巨大な動物をみた記憶をもとに岩壁
に大きな円を描いたとすればそれも表現である。それ
は誰かに対する通信ではなく自分の記憶を再現して自
己確認しているのだったとおもう。獲物を逃がして地
団駄を踏むのも表現だ。つまり言葉がなくとも表現が
あれば単独者にとってモノや感情はあったのだ。中国
人や日本人が使う漢字(という象形文字)は言葉から
発展したものというよりも表現から出発したものだと
わたしはみている。ソシュールのいう〈音素〉の前に
〈形態〉があったのだ。〈形態〉から出発したのが表
意文字(漢字)であるとみれば、話し言葉を基礎にお
くソシュールの西欧言語理論はそのままでは日本語に
適応できないのではないだろうか。

「詩人はまず表現したいもの(ヴィジョン・感情・思
想・体験・その他)を持ち、次にそれを読者と共有す
るために作品化しようとして、表現に努めるものなの
か。この素朴な、だからこそ根本的だと思われる問い
に、否と答えるところから、ぼくは詩を書いてきたし、
これからも書くだろう」
(『詩の構造についての覚え書』入沢康夫)

入沢康夫にはすまないが今のところ多くの詩人や批評
家にとって詩はそういうものである。表現なのである。
(ややこしい話だがここで入沢は「表現ではない」で
はなく、「言葉ではない」といえばわたしの意向とぴ
ったりなのだが、そこが転倒しているとはいえ)
だから本人が悲鳴をあげているのにどこまでも付きま
とい、嫌がらせのコメントをする卑劣で野蛮な人格で
あっても詩を書けるしイイネをもらうこともできるの
だ。別のことばでいえば詩がただの表現である限りそ
れは他のどんな表現分野のものよりも野蛮だともいえ
る。
このような投稿サイトでしきりに表現される倫理もま
た野蛮である。倫理はこのようなサイトで多くの人た
ちに無意識にイイネを強制するところがあって、それ
は別にかまわないとしても、倫理はそれが詩表現であ
る限りいまのところ野蛮だ。こんなことを書くと袋叩
きにあうだろうけど(また、袋叩きにあってきたが)
今どきの詩の多くが倫理的な意匠をこらしていること
に不快を禁じ得ない。おそらくそれはもう本来の詩表
現ではなく言葉としての詩の一番端に位置する何かな
のだ。

詩人の多くの方々が入沢康夫がいったことをなぜか難
解に受け止めて難渋な詩論を書いているが、わたしは
そのような詩論もまたいかにも野蛮な行為だとおもう。
とはいえ詩はどこまでいっても"いわゆる"表現である
ことは間違いないのだから、どこかで表現は表現をこ
えなければならない。


散文(批評随筆小説等) 詩は表現ではない Copyright 室町 礼 2024-11-03 07:25:26
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