喪失というものにかたちがあるとしたら
ホロウ・シカエルボク


それでも血は流れ続けた、ひっそりと咲いたアカシアの上にも、俺は俺を見放しそうな意識をどうにかして繋ぎ止めようと不透明な頭の中で画策していた、頭上にはすんでのところで雨を押さえているかのような黒雲がカーペットの様に敷き詰められ、数十羽のカラスが俺が熟すのを待っていた、ふざけんな、と俺は口の中の血を吐く、それまでの記憶はまるでなかった、いや、おそらくは上手く辿れなくなっているだけなのだ、でももうたぶん、そんなことはどうでもいいことだった、俺のことだからきっと、なにかをしくじったんだろう、思えばそんなことばかりだった、少しは上手くなってきたと思っていたのにこのざまだ、笑い話にもならない、いや、俺以外の、俺を知っている誰かにとってはこの上なく面白い話かもしれないが、俺は若いうちにすべての縁を切って、ゴーストタウンででも暮らすべきだった、乗せられるのも落とされるのももうごめんだ、初めからどこにも居なければよかった、でも今頃そんなこと言ったってどうにもならない、自分がいまどんな体制で居るのかすらわからない、立っているのだろうか、さっきまでは立っていたはずだ、目を開けてみる、待てよ、いつの間に閉じていたんだ、視界が低い、身体が重い、おそらくは尺取虫みたいにへたり込んでいる、カフカの小説よりタチが悪い、ザムザより死期も早そうだし、ははっ、笑うと喉の奥から半固形の血液の塊が堕胎された胎児のように零れ出た、それは海辺の洞窟のような臭いがした、カサカサ、カサカサとフナムシたちが俺の周りをうろつくのが聞こえた、いや、これは幻聴だ、ここは陸地だ、海なんかずっと遠くにあったはずだよ、カラスの羽音と鳴声が随分近くなっている、待ちきれなくなっている連中がもう少し近くで確かめようとしているんだろう、身体が冷えてきているのがわかった、もうそれは生を渇望するような状態ではなかった、これが死というやつか、と俺は感じ、もはやそれを受け入れるしかないことはわかっていた、俺の身体でこのカラスどもの腹が膨れるのなら、満更無駄な人生でもなかったのだろう、俺は目を閉じた、背後で爆竹が鳴るような音が聞こえ、俺は死への階段を半ばウキウキしながら登り始めた、いや、そのはずだった、目を覚ますと見知らぬベッドの上に居た、死んでいなかった、と思った、どこのかはわからないけれど、そこが病院であることはひと目でわかった、それも、多分に前時代的な、70年代といっても差し支えないようなセットであることは間違いなかった、ドラマのようだ、と俺は考えた、このあとどうなる?ドラマならいかにもな医者が看護師を従えて現れる、俺は少し待ってみた、いま起きたかのように唸り声を出したりもした、でも誰もやってこなかった、身体を動かそうとしたが動かなかった、縛られているのだろうか?目玉だけを動かして身体を眺めてみたが、そういうわけではなさそうだった、集中して、右腕や、左腕、右脚や左脚、首や腰、なんかが動くかどうか試してみたが、まるでびくともしなかった、なんてこった、と俺は思った、死んだと思ったのに生きていた、生きていたのに動けなかった、壁に時計がかかっていた、オフィスの壁なんかに飾ってある、味気ないデザインのアナログ時計だ、身体の動かない俺が時間が知りたくなったときのために、わざわざ用意してくれたのかもしれない、その時計はびっくりするくらい景色にハマっていなかった、でも、とりあえず、おかげで俺は時間を知ることが出来た、二時、午前だろうか、午後だろうか?窓は頭の右側にあるらしく、いまの俺には確認することが出来なかった、あまりに静かなので午前なのではないかと思った、個人で営業している病院なのかもしれない、と思った、それなら深夜は誰も居ないことだってあるだろう、入院というものをしたことがないのでよくわからないけれど、それならそれで、夜が明けるのを待ってみればいい、誰が俺をここに連れて来てくれたのか、ここはどこなのか、俺自身にいったい何が起こったのか、この身体はもう一度動くことになるのか、訊きたいことは山ほどあった、早くすべてを知って落ち着きたかった、が、朝になろうと夜になろうと、そこに誰一人現れることはなかった、いったいどうなっているんだ、始めは誰も居ないのかと思った、しかし、眠っている間に包帯や点滴は取り替えられ、眠る姿勢も変えられていた、誰かが居るのだ、けれど、姿を見せることはない、こんな病院などありえないだろう、しかも身体は動かない、よくわからないが、尿や便は管を通して下に落ちているようだった、身体の感覚がないせいでいつそれが行われているのかまったくわからなかった、四日目に俺はあれこれ考えるのをやめた、誰かが俺を助けてくれて、面倒を見てくれている、それでいいじゃないかと思った、しばらくの間俺はそうしてされるがままになっていた、どれだけの時間が過ぎたのか、ある朝俺は目が覚めて無意識に起き上がって頭を掻いていた、それから、驚いて辺りを見渡した、身体についていたあれこれはすべて外されていた、まるで今日そうなることがわかっていたかのように、俺はベッドを降りた、足元にスリッパが用意されていた、部屋の隅にはロッカーがあり、無難な感じのシャツとチノパンがあった、前に着ていたものは駄目になったのだろう、着てみるとサイズもぴったりだった、それから建物中を探したが誰一人見つけることは出来なかった、医師も看護師も患者も居なかった、確かに病院としての設備は整っていたが、あらゆる機器は長いこと使われたことがないのを語るように埃にまみれていた、率直に言ってそれは打ち捨てられた病院の廃墟だった、俺は茫然と狭いロビーに立って受付を見た、受付は床が脆くなっているのか、棚が倒壊していて人が入れる状態ではなかった、なんとなく、早く出て行きなさいと言われた気がした、俺は外に出て建物を見上げた、どうしていいかわからなかったので一礼した、二階の窓で誰かが手を振ったような気がした、病院を後にして小さな街の中を歩いた、そこにもやっぱり人の気配がなかった、まるで見覚えのない景色だった、なんなんだ、と俺は呟いた、すべてが夢の中のことのように思えた、俺はいま本当に生きているのだろうか、ここは現実の世界なのだろうか?それを知るにはここを出て駅にでも向かうしかなかった。



自由詩 喪失というものにかたちがあるとしたら Copyright ホロウ・シカエルボク 2024-10-21 22:38:17
notebook Home 戻る