数式の庭。原型その2
田中宏輔

*


なんとはなしに眺めていて
思ったのだが、
このなんでもない
あたりまえの数式を
はじめに考えたものは
偉大であったのだと思う。
はじめにつくりだすことが
いかにむずかしいことであるか
また
つくりだしたそれを
他の多くの人間に
その意味するところのものであることを理解させ
そのことで
他の人間のこころが
それを使いこなせるようにするまでに
その意味を確たるものにするのが
いかに困難で
なおかつ
新しければ新しいほど
つまり
それを前にした人間にとって
それがどのような意味をもって
のちには公的に
どのような意義をもつものとなるのか
まだわからないときに
それをつくりだした人間が
どのような無理解と障害に遭遇するのか
遭遇してきたのか
考えただけでも怖ろしい。
なんとはなしに眺めていた
この数式の花にも
いわくつきの話があったのであろう。
あまりに基本的で
だれによって考えだされたのかも不明な
名もないこの数式にも
だれも語り継ぎはしなかったであろうけれど
きっと
ものすごい苦悩と喜びの物語があったのであろう。
こころがつくりだし
それがまた
こころをつくるのだもの。
きっと
ものすごい苦悩と喜びの物語があったのであろう。


*


詩人のメモとルーズリーフから目を離して
庭先に目を向けた。
詩人のメモにあった簡潔な言葉が
わたしのこころを
あたりまえのようにして存在しているさまざまなものに
思いを馳せさせる。
かわきかけの刷毛でひとなでしたように
ほんのいくすじか、かすかに
もうひとなですると、なにもつかないといったぐあいに
まるで申し訳なさそうにとでも言うように
空のはしに白い雲がかかっていた。
わたしが手で雲をなでると
白い雲がすーっと消えていった。
まさしく青天である。
あのかわきかけの刷毛のひとなでは
わたしのこころの記憶になった。
記憶といっても
おぼろなもので
いつまでも覚えていられるものではないだろう。
そういえば
さいきん、よく空を見上げる。
空を見上げては、雲のかたちを見つめている。
どの日の雲のかたちも違っているのだろうけれど
どんなかたちであっても、うつくしいと思ってしまう。
なぜかは、わからない。
それに、どの日の雲のかたちも覚えているわけではない。
じつを言えば
いま自分の手で消した
ひと刷毛の雲のかたちだけしか覚えていないのだった。
しかし、どの日の雲のかたちもうつくしかった。
雲のかたちを覚えていられないのに、
そのかたちを見て、うつくしいと思ってしまうのだった。
覚えていることができるものだけが
うつくしいのではないことに気がついたのだった。
いつまでも覚えていられるものだけがうつくしいわけではないのだと。
覚えていることができるものだけがうつくしいわけではないのだと。
きょうは
一年のうちで
南中高度がもっとも高い日ではなかろうか。
朝もまだはやい、こんな時間なのに
つよい日差しに
数式の花たちが数や記号の影を落としている。
わたしは庭先のテーブルに
詩人のメモやルーズリーフを置いて
椅子に腰を下ろした。
この天気のよい
濃い影を落とす日差しのつよい日に
庭先のテーブルに肘をついて
両手のひらの上に自分の顎をのせて
すこしのあいだ
うとうととしていた。
なんの心配ごともなく
ただ詩人のメモやルーズリーフにあった言葉を
ひとつひとつ思い出していた。
鼻の下や額から汗が噴き出してきた。
目をあけて
まどろみから目をさますと
目の先に
さっきまでなかった花が咲いていた。
とても小さな花だった。
こうした
まどろみから目をさましたときにしか
見つけることができなかったものかもしれない。
そんなことを思った。
それは
詩人のメモにあった数式と同じものであった。
詩人は
フェイズとアスペクトという言葉をつかって
言葉が形成するものや、その効果についてよく語っていた。
ただし、そのフェイズもアスペクトも
言語学でつかわれる意味ではなく
詩人独自の意味合いを持たせていた。
フェイズは、言葉が形成する意味概念そのものに近いのだが
詩人は、ときおり、フェイズを相とも呼んでいた。
相は、ある法則
それは
単一のものでも複数のものでもよいのだが
ある法則にしたがって概念を形成する場のことで
その場は
言葉が形成すると同時に
その言葉を受けて頭になにものかを思い浮かべる
その言葉の受け手の頭のなかにもあるもので
言葉というものが、つねに受け手の存在によってしか
その存在できないという立場から
詩人は、こんなことを言っていた。
「言葉はね。
 ぼくのなかにもあって
 それと同時に、ぼくの外にもあるものなんだ。
 たとえば、きみが、空に浮かんだ雲を指差して
 雲、と言ったとするだろ。
 ぼくが、きみの言葉を聞いて
 空を見上げたとしよう。
 そこに雲があるかないかで違うけれど
 いまは、きみが、雲と言って
 雲が浮かんでいたとしよう。
 ぼくは、きみの言葉から導かれて
 雲に目をやったのだろうけれど
 ぼくの目は、その雲を見るのだろうけれど
 ぼくのこころは、きみが口にした雲という言葉で思い出される
 さまざまな記憶にもアクセスして
 目で見ている雲以外の雲も
 こころの目に思い浮かべるだろうね。
 ことに、きみといっしょにいた
 さまざまな思い出とともにね。
 そして
 もっと、おもしろいのはね。
 もしも、きみが、雲と言って指し示したところに
 雲がない場合ね。
 それでも、ぼくは
 そこに、雲を見るだろうね。
 なにが、ぼくに雲を見させるんだろう。
 きみが口にした、雲という言葉かい?
 おそらく、そうだろう。
 きみが口にしなければ、ぼくのこころの目に
 雲の姿かたちなど、微塵も思い浮かばなかっただろうからね。
 でも、もしも、ぼくがいなければ、どうだったんだろう。
 きみが、雲という言葉を、ぼくに言わなかったら?
 ぼくのこころの目に浮かんだ雲の姿かたちは
 きっと現われることなどなかったろうね。
 言葉が、ちゃんと機能した言葉であるためには
 その言葉を理解できる受け手が存在しなければならないってことだね。
 言葉がちゃんと機能するっていうのは
 その言葉が指示する対象が存在するかどうかではなくて
 その言葉の受け手が
 その言葉が指示するものがなにであるかを
 きちんと認識できているかどうかにかかっているんだよね。」
アスペクトは、これまた言語学でつかわれる意味とは異なって
視点という意味でつかっていたように思う。
そしてフェイズとアスペクトについて
こんなことも言っていた。
「同じ事物でも
 フェイズが異なればアスペクトが異なり
 アスペクトが異なればフェイズも異なる。
 いま
 きみの手元にあるコップについて考えてみよう。
 それを単に液体を入れる容器として見る見方と
 それを、ぼくのコップと色違いのもので
 かつて、ぼくの恋人が使っていたもの
 ぼくが恋人と過ごしたいくつもの日を思い出させるものとして見る見方と
 ぼくにとっても
 日によって
 フェイズも異なればアスペクトも異なる。
 ぼくにとってのそのコップと
 きみにとってのそのコップの意味
 フェイズやアスペクトが違っていて当然だね。
 これがあらゆる事物・事象について言えることだよ。
 しかし、ある点で
 いや、多くの点で共通するフェイズやアスペクトを持ち合わせているから
 ぼくたちは
 ぼくたち人間は理解することができるんだろうね。
 お互いの生活を。
 お互いの生き方を。
 お互いの気持ちや考えてることを。」
そのときのわたしは、詩人の言っていることの意味を
すべて理解できていたわけではなかったが
さいきんになって、ようやくわかるような気がしてきたのであった。

1+1=1
こんな数式に意味があるのだろうか。
詩人のメモには、つぎのようなことが書いてあった。

ひと塊の1個の粘土に、もうひと塊の1個の粘土を加えて、
ひと塊の1個の粘土にしてやることができる。
それを
1+1=1
という式にかくことができる。
そういうフェイズとアスペクトをもつことができる。
このフェイズとアスペクトのもとでは
つぎのような式も意味をもつ。
1+1+1=1
1+1+1+1=1
・・・
左辺の数を1に限定することはないので
2+3=1
などともできるし
右辺の数を1に限定することもないので
2+3=4
ともできる。
1を10000個足す場合も
1+1+1+・・・+1=1
とできるし
1=1+1+1+・・・+1
のように
1個の粘土を10000万個にもできる。
このことは
ヘラクレイトスの「万は一に、一は万に」といった言葉を思い出させる。

詩人のメモにあった考察は
まったくのでたらめだったのだろうか。
いや、ベクトルとして見れば、妥当である。
間違いではない。
ベクトルでは
ゼロベクトルから出発して多数のベクトル和として表現することさえできる。
詩人は、あのメモにゼロという数字を書かなかったし
無限という言葉も書いていなかった。
たしかに、ゼロという数は
詩人のあのメモにあるフェイズとアスペクトからは
出てくるものではなかっただろう。
しかし、無限は?
そうだ。
たしか、詩人は、こんなことを言っていた。
「無限は数ではなくて
 状態だからね。
 無限にあるような気がしても
 無数にあるような気がしても
 無限や無数といったものはないからね。
 概念としては定義できても
 定義されたものが必ずしも存在するわけではないからね。」
詩人は、無限を数としては認めていなかったようである。
ゼロという数も嫌っていた節がある。
空集合について、独特の見解も持っていたし。
さっき見かけた
1+1=1
という小さな数式の花が消えていた。
見間違いだったのだろうか。
詩人のメモが見させた幻想だったのだろうか。
かつて、詩人が言ったように、
雲という言葉が
じっさいには、そこにない雲を
こころの目に見させることがあるように。


*


詩人のメモから

無限に1を足すという言葉に意味があるとすれば
無限=1
ということになるであろうか。
いや
無限に1を足したものが1に等しいのと
無限が1に等しいというのではフェイズが異なる。
1+1+1+・・・=1
という式になるということだが
同じフェイズから
同じアスペクトから
1+1+1+・・・=2
という式もできるし
1+1+1+・・・=3
・・・
という具合に、それこそ無限は
いや、無限に1を足したものは、どのような数にもなる。
これは
あくまでも
無限=2
無限=3
・・・
とは異なるフェイズであるが
あたかも
無限=1
無限=2
無限=3
・・・
が妥当であるかのような印象を与えるものである。
もしもこの奇妙なアスペクトを生じさせるフェイズを承認するならば
上記の式より
1=2=3=・・・=無限
といった式にも意味があることになる。
このアスペクトは、なにをもたらせるか?
このアスペクトを生じさせるフェイズはなにをもたらせるか?
言葉についてのなにを?
自我についてのなにを?


*


n個というとき
nを、ある任意の数とみなす。
ひとまず、ある数が仮に文字nに置かれているのだとみなす。
無限個などというものとみなすことはない。
しかるに
nを無限にすると
という言葉を耳にするやいなや
こころのなかで
nを無限に大きな数というものに置き換える気になってしまう。
無限に大きな数などというものが
あたかも存在するかのように。
無限に大きな数などというものを数として受け入れない立場からすると
では、無限という概念を、どう定義するのか。
定義できないのである。
そして、従来からある無限の定義を受け入れないことには
幾何も代数も完全に放棄しなければならないことになるのである。
こころのどこかが抵抗しつづけているのである。
無限に。


*


数にも履歴があるとする。
つまり演算の痕跡があるとするのである。
とすれば、どれだけの痕跡があり
履歴が生ずるのか
想像するにおびただしい数であろう。
さまざまな演算子で
さまざまな数式に用いられた痕跡が
わが目で見られるというのだ。
まるで言語のように。
このとき
言語と同じように
異なるフェイズとアスペクトをもって
その痕跡も見られるということであるのならば
履歴が、見るひとによって
異なるものとなるということである。
言葉が
読む人のファイズとアスペクトで
まったく異なる意味をもつように。
数が経験してきたさまざまの演算と数式
そのおびただしい体験と経験について考えると
これまで言葉が体験してきたもの
これまで言葉が経験したきたさまざまなものをも思い起こさせた。
そうだ。
言葉が体験し、経験したのだ。
わたしたちが体験し、経験するとともに。


*


このアスペクトからすると
1=1+2+3+・・・
2=1+2+3+・・・
3=1+2+3+・・・
・・・
ある数が
あらゆる数を結びつけたものとしても表現できる。
ここでは、もはや、数が問題なのではなく
結びつけることが数自体より重要なこととなっているのである。
演算を繰り返せば繰り返すほど
演算子の+という記号と
その機能の重要性がます。
究極的には、近似的に
+という演算子のみのアスペクトが生じる可能性がある。
いや、そのような可能性などないだろうけれど
可能性があると書いてみたかったのである。
書いてみると、可能性があるように思えると思ったからである。


*


「+という演算子のみのアスペクトが生じる可能性がある。 」
あるわけがない。
言葉を使わないで
言葉がつながることを示唆することができないように。
ただ
演算子の意味が強調されると
数の意味概念が後退させられるような気がしたのだった。
意味概念の後退とは
たとえば
2と3といった数の意味の輪郭であり
足すという演算のほうに意識が集中させられると
2でも3でも
あまり、その数自体に意味がなくなっていくということである。

2や3では無理か。
もっと大きな数。
自我とは
この演算子のことであろうか。
+だけではないし
まず
線形に演算されるものとも思われないが。
しかし、演算子も
数がなければ演算子が機能しないので
数と演算子の関係を
言葉と自我との関係として
アナロジックに見てやることもできる。
そうだ。
まさしく
数は言葉に
演算子は自我に。
しかし、言葉が自我と分かちがたいものであるように
数も演算子と分かちがたいものであろう。

逆か。
数が演算子と分かちがたいものであるように
言葉も自我と分かちがたいものなのであろう。


*


そして、さらに
もっとおもしろいことにはね、
と、ゴーストが聞こえない声でささやいた。
見えない指で、わたしが差し示した空に雲がなくてもね、
きみたちは、空を見上げて
そこにない雲を
こころの目に思い浮かべることもあるんだよね。
と、ふと、そんな声が聞こえたような気がして
空を見上げた。


*


ゴーストは、空を曲げ
雲をまっすぐに伸ばしてばらまいた。
直線状の雲に数式の庭が寸断され
わたしの視線も寸断され
数と記号の意味合いのわからぬ並びを
同時に縦から横から斜めから上から下から
しばらくのあいだ眺めていた。


*


コーヒーカップをテーブルの上に置いて
足もとの数式の花に目をやった。
コーヒーの香りがコーヒーをこしらえたように
数式の花がこの庭をこしらえ
わたしをこしらえたのだとしたら
あの言葉は逆に捉えなければならないだろう。
「宇宙は数でできている」
とピタゴラスは言った。
宇宙は数でできているのではなく
数が宇宙をこしらえたのだと。


*


ところが、だ。
数ではないものもあるのだ。
すべてのものが数に還元できるわけではない。
そうだろうか。
わたしたちは、すべてのものを数に還元しようとしている。
すべてのものを数え上げ、数にしようとしている。
実現できているかどうかは、わからないのだが。
しかし、数ではないものもあるであろう。
数にできないものもあるであろう。
感覚器官が知覚できないものがあるように
数にできないものもあるはずだ。
では、それを記号にすればよいのだ。
数と数をつなぐものと考えればよいのだ。
はたして、そうだろうか。
数にもならず、記号にもならないものがあるはずだ。
数にもならず、記号にもならないもの。
数式でいえば、数式にあらわされないもののことである。
数と記号を定義する言葉とその言葉を与えるなにものか。
では、数と記号と
その数と記号を定義するなにものかの意思と言葉をのぞくと
世界は空っぽなのか。
いや、世界はないのか。
いやいや、世界ではないのか。
もちろん
世界は空っぽではないだろう。
数でもなく、記号でもなく
その数や記号や
それらにまつわるもろもろのものをのぞいた
なにものかが存在するだろう。
その存在は確認できないものであるが
存在していることは直感的にわかる。
しかし、数や記号や
それらにまつわるものがなければ
この世界は存在しないのだろう。
この世界とは違った世界があるのかもしれないが
それは、この世界ではないのだろう。
数にもできず
記号にもできず
数や
記号の定義にも関わりがないもの
それがなにか
わたしには
すぐに思いつくことができなかった。
思いついた
あらゆるものが
数と記号と
言葉でできているのだった。
その言葉というのも
すべて、記号がどういう意味をもつものなのか
その意味を与える言葉でしかなかった。
そんなものばかりしか思い浮かばなかったのだ。
もちろん、思い浮かばないから存在していないのではなく
思い浮かばないものではあるが
思い浮かばないものも存在していることは確信しているのであるが
やはり
数が宇宙をこしらえたのだと
つくづくそう思われるのであった。


*


丸め合わせた
手のひらのなかで
数や記号が
かさかさ音をたてて
動き回っている。
手のひらに
チクチクあたる
数や記号のはじっこ
このこそばがゆい感じが
とてもここちよい
身体で感じる
数と記号


*


 数あるいは数的なものが記号よりさきにあって、あとで記号を創り出させたのか、記号あるいは記号的なものがさきにあって、あとで数を創り出させたのか、わからない。それとも、数あるいは数的なものと、記号あるいは記号的なものは、同時生起的に創り出されたものであるのか。
 明らかに後代になってつくられた数や数的なもの、記号や記号的なものがあるのだけれど、まったくの原初においては、どうだったのであろう。
 これは、語がさきか(もちろん、最初は文字言語ではなく音声だろうけれど)、語法がさきか、という問題に似ている。単純に、語がさきであると断定してよいのであろうか。原初においても、語法的な欲求がさきにあって、のちに語がつくられた可能性はないであろうか。語法と語法的な欲求は違うものであろうか。もちろん、語法と語法的な欲求を混同してはならないと思うのだが、語法的な欲求とでも呼ぶしかないものがあるような気がして、語法的な欲求という言葉でしかあらわせないものがあって、それが語をあらしめたのではないか、少なくともそういったケースがあるのではないかと思われるのであるが、どうであろうか。もちろん、新しい事物や事象に、新しい言葉を与える場合があるのだが、このような場合の欲求のことではない。いや、こういった欲求も含めていいのだが、形式が実体を求めるようなもの、そうだ、俳句や短歌がよい例だ。形式が言葉を求める、実体験あるいは実体験への観想を求めるように、語法的なものが語を求めるというようなことがあるように思えるのである。
 たとえば、さいしょのものの比喩としたら、数をビーカーに入れて、長い時間、温めながら撹拌しつづけると、記号が滲み出してきて、やがて数と数が記号によって結びつけられるというようなイメージだろうか。あるいは、さらに合理的な比喩としたら、堆積岩の生成過程を例にあげることができるであろう。別々の砂礫が高圧力のもとで、それぞれの砂礫の接触面で溶融するかのように結びついて、ひとかたまりの岩石となる過程である。
 ふたつ目のものの比喩としたら、過飽和水溶液から結晶が晶出するように、記号あるいは記号的な欲求が、数や記号を晶出させるといったイメージだろうか。
 記号あるいは記号的な欲求を、語法あるいは語法的な欲求として見て、数あるいは数的なものを、言葉として見てとると、数と記号の問題は、語と語法の問題の、より単純な系として見ることができる。これによって、言葉に関する問題、意識や無意識に関する問題、文学や芸術に関する問題などを、とても取り扱いやすい系で考えてやれることになるということである。
 極端であろうか。唐突であろうか。素っ頓狂であろうか。


*


 事物・事象が精神と結びついたものであることは、現実の在り様から分明であるが、また文学作品が読み手の解釈と密接に結びついていて、読み手の解釈との関わりによってのみ、その作品のじっさいの在り様があるように(日常の言葉のやりとりにおいても、これは言えるのだが)、数式もまた、その数式の意味をどこまで知っているか、その数式があらわしているものと示唆するものが、どういったものであるのかということを知っているのか知らないかで、どこまでその数式の変形や展開に関われるのかが異なるものになるように、違ったフェイズとアスペクトをもつ者にとっては、同じ数式が同じ数式ではなくなるのである。同じ数式が異なるフェイズとアスペクトをもつということである。このことは、あらゆる事物や事象が、その事物や事象を観察し解釈し解析する者によって、その存在をあらしめられるという、現実の在り様に相似している。
 ところで、その観察し解釈し解析する者は、その者が観察し解釈し解析する対象が存在しなければ、存在しないものであるのであろうか。存在するのか存在しないのかは、わたしにはわからない。しかし、もしも、世界に、ただひとりの存在者しかいないとしたら、あるいは、こう仮定したほうがよいであろう、もしも、ただひとりの存在者しかいない世界があるとしたら、その存在者にとって、現実とは、いったいどのようなものであろうか。観察し解釈し解析するものがいない世界での現実とは、いったいどのようなものであろうか。そもそものところ、そこには現実というものがあるのかどうか。
 数式がただひとつしかない世界があるとして、はたして、その数式は、意味をもつものであるのだろうか。観察し解釈し解析する人間がいなくて。自らの姿をのぞき見ることのできる鏡もなくて。 
 おそらくそのただひとりの存在者は、どうにかして、自分を観察し解釈し解析しようとするであろう。現実をあらしめるために。それゆえに、神は、世界を創造し、人間というものを創り出したのかもしれない。ここで、ふと、わたしは、詩人のつぎのような言葉を思い出した。
「神とは、あらゆる人間の経験を通して存在するものである。」


*


 数式においては、数と数を記号が結びつけているように見えるが、記号によって結びつけられたのは、数と数だけではない。数と人間も結びつけられているのであって、より詳細にみると、数と数を、記号と人間の精神が結びつけているのであるが、これをまた、べつの見方をすると、数と数が、記号と人間を結びつけているとも言える。複数の人間が、同じ数式を眺める場合には、数式がその複数の人間を結びつけるとも考えられる。複数の人の精神を、であるが、これは、数式にかぎらず、言葉だって、そうである。言葉によって、複数の人間の精神が結びつけられる。言葉によって、複数の人間の体験が結びつけられる。音楽や絵画や映画やスポーツ観戦もそうである。ひとが、他人の経験を見ることによって、知ることによって、感じることによって、自分の人生を生き生きとさせることができるのも、この「結びつける作用」が、言葉や映像にあるからであろう。


*


わたしは目である。
わたしは視線である。
わたしは頭である。
わたしは手である。
わたしは触感である。
ダイヤブロックを組み合わせ、いろいろなものを模したものをこしらる。
あるいは、なにものにも似ないものをこしらえる。
わたしはダイヤブロックを出現させる。
わたしはダイヤブロックそのものにもなる。
このとき、わたしはわたしの目をつくる。
わたしの視線をつくり、わたしの頭をつくり、
わたしの手をつくり、わたしの触感をつくる。

わたしは記号である。
わたしは数と数を結びつける。
わたしは数を出現させる。
わたしは数そのものにもなる。
このとき、わたしは記号をつくる。
わたしは思いつきである。
発想である。
計画である。
わたしは文意である。
わたしは文脈であり、効果である。
わたしは言葉と言葉を結びつける。
わたしは言葉そのものにもなる。
このとき、わたしは思いつきとなる。
発想となり、計画となる。

ダイヤブロックでつくろうとしたものがつくれないことがある。
重力のせいで、形が崩れるのだ。
あるいは、ダイヤブロックの数が足りなかったり
ダイヤブロックにほしい色がなかったり
ちょうど使いたい大きさのものがなかったりして。
用いる記号を間違って使ってしまったり
正しく変形したり展開したりすることができないことがある。

適切な文体が思いつかず
目的とした文意を形成する文脈を形成できなかったり
目的とした効果を発揮することができなかったりする。
無意識的に手にとったダイヤブロックを組み合わせていると
見たこともないうつくしいものになったりすることがある。
無意識的に数式をいじっていると
すばらしい予感を与える数式になったりすることがある。
無意識的に言葉をつぶやいたりしていると
すばらしい音楽的なフレーズができることがある。
数多くの書きつけたメモを眺めていると
ふいにそれらが結びついて
見たこともないヴィジョンがもたらされることがある。
こういったときに、よく
わたしは、自身がダイヤブロックそのものになった気がするのだった。
こういったときに、よく
わたしは、自身が数そのものになったような気がするのだった。
こういったときに、よく
わたしは、言葉そのものになったような気がするのだった。

それとも、ダイヤブロックそのものは、
なにかを目指してつくられたものではなかったのだろうか。
それとも、数そのものは
なにかを目指してつくられたものではなかったのだろうか。
それとも、言葉そのものは
なにかを目指してつくられたものではなかったのだろうか。
出来の良いわたしがあり
出来の悪いわたしがある。
良くもなく悪くもないわたしもある。
良くもあり悪くもあるわたしがある。

わたしそのものは
なにかを目指してつくられたものではなかったのだろうか。
庭先のテーブルに肘をついて
空を眺めていた。
雲のかたち。
つぎつぎとかたちを変えていく雲の形。
それは風のせいなのか。
雲にかかる重力と浮力のせいなのか。
地球が自転しているためか。
それとも
わたしが眺めているからだろうか。
わたしの目が
こころが
雲の形を変えていくのだろうか。


*


庭に出ようとした瞬間から
精神のなかに
数や記号があふれ出てくるのが感じられる。
数や記号が働きだそうとするのを感じる。
数式の庭に足を踏み入れたとたん
わたしの目と肉体は
内からの数や記号の圧力と
外からの数や記号の圧力にさらされて
まるで両手でピタッと挟まれた隙間のようだ。
限りなく薄い空気の膜のようなものとは言わないが
無に近い存在かもしれない。
無力な無ではないつもりではあるが。


*


詩人がネット上に書いていた言葉に目を通していた。
日記の断片であろうか、作品の一部のようにも見えるが
詩人は、つくりかけの詩の断片をよくそのまま放置しておいた。
記憶と音に関するところだ。

ネットの詩のサイトに投稿していた詩を何度も読み直していた。
もう、何十回も読み直していたものなのだが
一か所の記述に、ふと目がとまった。
記憶がより克明によみがえって
あるひとりの青年の言葉が
●詩を書いていたときの言葉と違っていたことに
気がついたのである。わずか二文字なのだが。
つぎのところである。

●「こんどゆっくり男同士で話しましょう」と言われて   誤
●「こんどゆっくり男同士の話をしましょう」と言われて  正  

誤ったのも記憶ならば
その過ちを正したのも記憶だと思うのだが
文脈的な齟齬がそれをうながした。
音調的には、正すまえのほうがよい。
ぼくは、音調的に記憶を引き出していたのだった。
正せてよかったのだけれど
このことは、ぼくに、ぼくの記憶が
より音調的な要素をもっていることを教えてくれた。
事実よりも、ということである。
映像でも記憶しているのだが
音が記憶に深く関与していることに驚いた。
自分の記憶をすべて正す必要はないが
とにかく、驚かされたのだった。
いや
より詳細に検討しなければならない。
●詩のまえに書いたミクシィの日記での記述の段階で
脳が
音調なうつくしさを優先して言葉を書かしめた可能性があるのだから。
記憶を出す段階で
記憶を言葉にする段階で
音調が深く関わっているということなのだ。
記憶は正しい。
正しいから正せたのだから。
記憶を抽出する段階で
事実をゆがめたのだ。
音調。
これは、ぼくにとって呼吸のようなもので
ふだんから、音楽のようにしゃべり
音楽のように書く癖があるので
思考も音楽に支配されている部分が大いにある。
まあそれが、ぼくに詩を書かせる駆動力になっているのだろうけれど。
大部分かもしれない。
音調。
それは、ほとんどつねに、たしかに恩寵をもたらせるのではあるのだが
恩寵とは呼べないものをもたらすこともあるのだった。

青年が発したのは、まさに言葉であって、ものではなかった。
ものはなかったので、それをそのまま保存しておくことはできなかった。
詩人は、音声によって、その言葉を聞かされたのであった。
青年は、言葉によって、そして、そのとき言葉を発した気持ちを
その表情に、そのからだのつくりだす雰囲気によって伝えたであろう。
伝えようとする意志がどこまで意識的かどうかにはかかわらず
きっと、その表情やからだぜんたいから醸し出されるニュアンスは伝わったであろう。
そして、その言葉はその青年の呼吸と同じように吐き出され
詩人の呼吸と同じように吸いこまれたのであろう。
呼吸。
そうだ、呼吸は呼気と吸気からなる一連の運動である。
しかし、吸い込んだ空気中の酸素をすべて変換してからだは吸収するのではなく
からだは吸い込んだ空気から変換した二酸化炭素と変換しなかった酸素を吐き出すのだ。
呼吸。
詩人がよく使ったレトリックだが
おそらく、そのとき、その時間がふたりを呼吸していたのであろう。
その場所がふたりを呼吸していたのであろう。
その出来事がふたりを呼吸していたのであろう。
おそらく、そのとき、その時間が詩人と青年を呼吸していたのであろう。
その場所が詩人と青年を呼吸していたのであろう。
その出来事が詩人と青年を呼吸していたのであろう。
詩人の一部を時間に変え、時間の一部を詩人に変え
詩人の一部を場所に変え、場所の一部を詩人に変え
詩人の一部を出来事に変え、出来事の一部を詩人に変え
青年の一部を時間に変え、時間の一部を青年に変え
青年の一部を場所に変え、場所の一部を青年に変え
青年の一部を出来事に変え、出来事の一部を青年に変え
そうして、詩人の一部はその青年となり、その青年の一部は詩人となり
その年の一部は詩人となり、詩人の一部がその青年となったのであろう。
そのとき、人はその青年を呼吸し、その青年は詩人を呼吸していたのであろう。
音声による言葉の意味概念の想起は
詩人が書いていたように、
音声による「なめらかさ」といったものをくぐってもたらされたのであろう。
その青年が発した言葉による意味概念のなかで
とりわけ、「男同士」というところが強い印象を持たせたであろう。
したがって、その「男同士」という言葉につづく言葉として
詩人としては「で」という、もっともありふれた
つまり、詩人が知るところでもっとも標準的な言葉を
音声的にも耳慣れたものであり、音調的にも
「の」よりも、耳にここちよいほうを
「正しい記憶」ではなく「記憶していたと思っていた言葉」から
引き出したのであろう。
のちのち詩人が、「正しい記憶」を思い出せたのは
詩人が書いていたことから推測されるだろう。
自分の作品を何度も読み返しているうちに
その言葉が想起させるイメージが
これはヴィジョンだけではなく、
そのときのニュアンスとかいったものも含めて
詩人が想起させたときに
「正しい記憶」のほうが
「それはまちがっているぞ」というシグナルでも発していたのであろう。
詩人は、そのシグナルにはじめは気がつかなかったが
何度も読み返しているうちに気がついたのであろう。
詩人は、「文脈の齟齬」と書いていたが
「正しい記憶」による「心情の齟齬」とでもいったものが
詩人のこころのなかに生じたのではないだろうか。
「正しい記憶」が「誤った記憶」を正す機会は
そうあることではない。
詩人は貴重な機会をつかまえたわけだ。
まさしく、恩寵といったものを感じていたであろう。
恩寵か。
わたしは、数式の庭を見渡した。
数式の花たちは、わたしにとって言葉でもあり
記憶でもあり、ものでもある。
数式の花たちにとっても
おそらく、わたしは、言葉でもあり
記憶でもあり、ものでもあるのだろう。

詩人は、べつの日の日記に、つぎのようにも書いていた。

何十回も読み直していて気がつかなかったのに
気がついたのは、あの投稿掲示板の大きさによるところも大きい。
あの大きさだと、間違いに気がつくことがほんとうに多いのだ。
まずいところに気がつくことがほんとうに多いのだ。
視覚というのも、「正しい記憶」に関与しているのかもしれない。
さて
もちろん、視覚も「もの」ではない。
「もの」に依存するが。

書かれたものの大きさが、その作品を見渡せる大きさが
「正しい記憶」や、よりよい表現を促せたということか。
わたしの目は、もう一度ゆっくりと、数式の庭ぜんたいを見渡した。
プリントアウトした詩人の言葉をテーブルのうえに置いて
わたしは、ひとつの数式の花のところに足を向けた。


自由詩 数式の庭。原型その2 Copyright 田中宏輔 2024-10-17 00:29:47
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