狭間
ホロウ・シカエルボク
非常階段の先で光輝く太陽を見た、それは死にゆくものが最期に見る光景のように思えた、でもそれを確かめる手段なんか何も無かった、それを知るには俺はまだ強欲過ぎたんだ、衝動に従って―意味も分からないままに歩を進め、名前も分らないビルの屋上でそういう光景を目にすることはよくある、俺はそういう時「呼ばれている」と言う、ある種の光景、風景が電波のようなものを使って俺に呼びかけるのだ、だから俺は常にどこかで、そういう電波をキャッチ出来るようにアンテナを伸ばしている、受信帯域を確保している、電波を受信するのは一瞬なのだ、僅かでも隙があれば折角のチャンスを逃してしまう、報道系のカメラマンがテレビで似たような話をしていた、でも俺のは仕事じゃない、言ってみれば娯楽のようなものだ、そこに意味が存在するかと言われれば無意味かもしれない、でもそれは明らかにただそこを訪れる場合とはなにか違うものを秘めている、そう、例えば、太陽の角度とかね―そういう、ほんの一瞬の為にアンテナは研ぎ澄まされるんだ、問題なのはその光景そのものじゃない、きちんと受信することが出来るかどうかだ、それはタイミングの問題なんだ、だってそうだろう、太陽の動きはほぼ決まっているし、建物や自然もそこに在り続ける、気まぐれに形を変えるようなことはまずない、だからそれは、タイミングの問題なんだ―何のタイミングなのかって?ある程度答えることは出来る、でもそれは完全な答えじゃない、でも答えることは出来る、そう、しいて言うなら、世界が違って見えるタイミングさ、違う世界のドアが開く瞬間のタイミングなんだ、それは外界だけの問題じゃない、この俺の中に、そういうものを求める瞬間というのが必ずある、もちろんこれは、俺だけのものではない、どこの誰にだってあるはずのものだよ、けれど、そうした欲望を確かに認識しているかどうかによって結果は違ってくる、俺はそれを求め、ある程度手に入れることが出来るということさ、それは受信出来ない誰かと何が違うのか?それは大袈裟な話になるよ、人生そのものが絡んでくる、近頃俺は人生についての話をし過ぎて少々食傷気味なんだ、それについて語るのはまたの機会にするよ、今日はそういう気分じゃない、そう、ほんの少しの視線の違いなんだ、簡単にそう言っておくことにするよ、簡単に言おうが詳細に説明しようが、分からないやつは分からないものだからね、もう俺は説明の必要性を感じなくなったんだ、一時期試してみた上での結果だけどね―ステージの違いっていうものがあるじゃない?分からないやつが分かるやつのステージに上がって来るなんて無理なことなんだ、だって自分自身の有様についての覚悟が違うんだから…まあそんな話はいいよ、ともかく俺は非常階段を下りて下界に戻った、その非常階段がくっついてるビルの入口にあるいくつかの看板を見てみたけれど、オフィスにせよバーにせよ喫茶店にせよ今はもうやっていないようだった、もう何十年も建物としての役割を果たせないままそこにある、そんな感じがした、入口であったのだろう場所は板で覆われていた、非常階段を降りている時に、階段の真裏に小窓があったことを思い出して回ってみた、よくある交差式の引戸タイプのサッシで、滑らせてみると当り前のようにすっと開いた、トイレか何かだろうか?ほんの少し背伸びをすれば簡単に入れそうだった、少し悩んで、入ることにした、入口が塞がれているのだ、中で誰かに遭遇する可能性は限りなくゼロだろう、そこはトイレだった、水洗ではあったが和式の便所だった、そこだけ見ると現役のように見えた、個室が三つ並んでいた、あとは手洗いだけだった、女子トイレなのかもしれない、ドアを開けて廊下に出てみるとやはりそうだった、入口が塞がれているので少し薄暗かった、が、階段に窓があるらしくまるで見えないわけではなかった、使われていないオフィスビルに女を追いかけて入る小説があったなと思ったけれどタイトルは思い出せなかった、一階にあるのはトイレと給湯室とシャワールームだった、あとは入口の側に受付のような小窓がある部屋があった、シャワールームというのが少し不思議に感じた、オフィスビル的な建物にそんなものついているだろうか、と思ったのだ、が、そう言えばバーとかも入っていたのだったな、と思い当たった、バーか、喫茶店か、どちらかの人間がこのビルに住んでいたのかもしれない、どちらにせよ、シャワーを浴びるためだけに一階に降りてくるというのは少し面倒に感じた、本来居住を目的に作られたビルではないだろうから、多少の不便は仕方ないのかもしれなかった、ひとつひとつドアを開けて覗いてみたがそれほど面白いものは見つからなかった、二階に上がろうとして、踊り場にある大きな窓が目に入った、そこからは隣のビルの壁面が見えるのみだったが、夕日が斜めに入り込んで窓だけを器用に照らしていた、俺は階段の前で立ち竦んだ、その窓の中に女が居てこちらを眺めていた、その目はなにかを懇願するみたいに潤んでいた、どうか、頼むから上に行かないでくれ、どうかこのまま帰ってくれ、俺にはその女がそんな風に言っているように見えた、折角来たのだからという気持ちが拭えずしばらくの間葛藤したが、意味も無くそんなことを訴えたりしないだろうと思い、断念した、窓にずっと感じていた圧迫感のようなものが、そこから遠ざかるに従ってだんだん薄らいでいくような気がした、俺は入ってきた窓から外に出て、非常階段の一番下に腰を下ろし、いったいなんなのだと考えた、答えは出せる筈もなかった、立ち上がり、表通りへと歩いていく途中で、何かが激しく地面に激突する音を聞いた、思わず振り返ったけれどそこにはただ打ち捨てられた静寂がへばりついているだけだった。