二〇二四年九月二十八日
山人
めずらしく熟睡したようで、うっかり二時四十五分の目覚まし時計を停めてしまい、気がついたらすでに三時を過ぎていた。あたふたと準備をし、食後に飲む薬をポケットに忍ばせ、慌てて大便をする。洗顔、寝起きのストレッチもやらず、菓子パンを食いながら現場に向かった。車内にはレディーガガを流し、気分を高揚させることを意識した。
盆過ぎに整形外科を受診し、変形腰椎症と診断された。もはや普通でなくなった身体をこれ以上酷使するのは出来ないだろう。しかし、結果として私が選んだのは、身体が動けるうちは動くということだった。幸い、ストレッチのおかげか腰自体の痛みはほとんどなくなっていた。
もう二十年以上、地元の山岳の登山道整備や除草を行っている。その辛さや過酷さを題材に、たくさんの詩や散文を書き、それを読んで欲しいという気持ち以上にその自己の苦労に陶酔していた気がする。
六十里登山口駐車場は、標高七五〇メートル。天気予報は良くは無かったが雨に降られる予報ではなかった。しかし、乳白色の霧に覆われていた。ヘッドランプを取り出し、簡易椅子に座り地下足袋を入念に履く。山アプリを起動しオンにする。野帳にスタート時間を記入する。山アプリと山岳保険は対になっており、異常があれば家族が知ることができるようだ。
歩き出すと、本能的に光を求める数々の虫が乱舞し、ヘッドランプに寄ってくる。時折、山道のヒキガエルの幼生がのそりと動き私をびくっとさせる。
石ガラの山道を一〇分ほど登ると送電線巡視路の分岐となり、そこから県境までほぼ高低差の無い山道が用意されている。その楽な山道を一〇分ほど歩くと今度は巨大なアンテナの立つ電波塔の広場まで急登が続く。
体が熱くなってくると、最近チャドクガにやられた皮膚が、掻きむしりたくなるほどの痒みにおそわれる。痒みは痒みを呼び、あちらこちらで痒みの連鎖が湧きだし、歩きながら片手でシャツの上から搔く。痒い所を掻く喜びは、苦痛ではなく、むしろ病的な快楽ではないだろうかとすら思う。下手をすると射精のようなものなのかもしれない。
六十里登山口から小一時間で電波塔に着き、最初のピークには二時間強で着いた。さらに三〇分歩くと前回作業終了地点ピークに到着。六時五〇分だった。
野帳には作業ラウンドを書きこむ。何時何分から何時何分迄作業。二ラウンド目は○○から・・・といった具合に。刈払い機を軽量タイプに替えたので、燃料タンクも小さい。故に引っ張っても一時間半でガス欠となる。また、石がたくさんある部分では必ずといっていいくらい石を叩いてしまう。数回叩いてしまうと刃の切れ味は極めて悪くなる。よって、燃料補給すると同時にヤスリで刃を研磨しなければならない。一時間から一時間半の作業後は少なくとも十五分くらいメンテナンスなどをする必要がある。それらの時間を書き込むことでおよそ当日の作業効率や作業行程が掴めるのである。つまり、何時まで作業可能か、かなり遅くなっても作業を終わらせ、帰りもヘッドランプ覚悟で帰るか、など考慮するのである。
登山道敷にはアカモノやオオイワカガミなどの亜高山性の植物が多く、なるべくそれらを根こそぎ刈らぬよう努力するのだが、やはりある程度は刈ってしまう。何も知らない頃、これらの植物を根こそぎ刈ってしまったことがあったが、未だ復元が難しい場所もある。刈っても全く苦にしない植物群や、一度伐ると萌芽を出すこともできない木本類もある。毎年同じ登山道を刈り払っていると、その年その年の木の成長や、下層植生の変化などが手に取るようにわかってくる。
登山道の草刈りは、持論だが刈りすぎてはいけない。昨今、元気な年寄が多く、シルバー人材の方々が登山道整備に引っ張り出されるケースもあるようで、みなさん喜んで刈払い機を必要以上に振り回し、登山道はどんどん拡幅されているケースが見られる。これにより、登山道中央に水が流れ、登山者は外へ外へと歩き、下りで掴まる木すらもないという状態になる。萌芽を伸ばすことのできる木は陽性木本類だけであり、若干の日影を好む木は伐ると基本的に枯れる。ただしかし、単独で刈る場合にはそこまで考える必要もなく、伐っても切っても別な木や草が繁茂し、心配には及ばない。
昨日、実際に刈払い機を作動していた時間は五時間半だった。しかし、山に居た時間は十三時間を超えていた。現場に付く迄二時間半、帰路で四時間十五分。他メンテや給油、食事などである。食事はだいぶ前からパンに替えていた。シャリバテというように本来は飯粒がいいが、飯粒は重い。少しでも軽量化を図るためにパンにしたのである。カロリー的には米よりも良いのかもしれない。
十三時四十五分、最後の刈払いを終わらせ、刈払い機を担ぎ現場を後にした。別なルートで帰り、妻に迎えを頼むことも考えたが、蛞蝓のように刈り進んだ自分の作業痕をまじまじと眺めたい気分になってしまったのである。
十八時丁度。ヘッドランプの私はまずタイヤを見た。
異常の無いタイヤをよろこんだのである。