メモ(主に映画についてのこと)
由比良 倖

2024年9月14日、


 昨日は映画をいくつか見た。長年、僕は映画というものにどう接したらいいか分からなかった。僕は画面のこちら側にいる。映像は画面の向こう側にあって、僕の世界と映像の世界は隔てられている。映画を見てても「画面の向こうで何かやってる」という風にしか感じられなかった。
 アニメは昔から大好きだ。全てが作りものの、カラフルな世界には、いつもうっとりしてしまう。いかにも現実っぽい映画よりも、最初から作りものだと分かっているアニメの方に、リアリティを感じる。僕はもともと世界を抽象的に見ているのかもしれない。現実を、まざまざとした、掛け替えのないリアルとして感じる能力が、僕には少し欠如しているかもしれない。だから抽象的で記号的なキャラクターや風景に充ちているアニメには、すんなりと身を任せられるのかも。
 あるいは、生身の人間にはもう疲れているので、映像でまで生々しい人間を見たくないという気持ちもあったかもしれない。


 ゾンビ映画とスプラッタ映画は、昔からよく見ていた。何故なら血や、身体の腐った人々など、普段の生活ではまず見られないものを見ることが出来るからだ。
 コロナウィルスが流行る前には、TSUTAYAによく足を運んで、B級ホラーを片っ端から見ていた。ちなみに僕が一番好きなゾンビ映画は『ブレインデッド』だ。とにかく流血シーンが多く、今はどうかしれないけれど、少なくとも数年前には「最も多く血糊が使われた映画」と言われていた。広い玄関ホールに密集したゾンビたちを、芝刈り機で大量のミンチにしていくシーンは、いつ見ても爽快だ。
 僕は長年、実写の映像作品で唯一見たいものは血みどろのシーンだけだった。役者の演技も、芸術的な構図も、よく出来た物語の構成も、僕にはまるで分からなかった。血みどろのシーンにだけぞくぞくするという、書いてみると少しやばいような興味と関心しか、映画には抱いてなかった。


 「もしかしたら映画ってすごいのかもしれない」と思い始めたのは、数日前のことだ。6日前(9月8日)に、僕が大好きな映画監督であるタルコフスキーの『映像のポエジア』という本を読んで、僕は今まで映画(を含めた映像表現)について、大きな誤解を抱いていたと思った。
 僕は映画がよく分からないながらも、(スプラッタ以外にも)好きな映画があるにはあって、小津安二郎の映画、特に『東京暮色』は何度も見ているし、ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン、天使の詩』や『パリ、テキサス』、フランシス・フォード・コッポラの『地獄の黙示録』、タルコフスキーの『ノスタルジア』は大好きで、それぞれ何度見たかわからないくらいだ。でもそれも、単に雰囲気が好きで漫然と見ていただけで、音楽や読書の方が、映画よりもずっと没入出来るし、不遜にも、映画なんて、ちょっとよく出来た暇つぶしに過ぎないと思っていた。


 映画は人の感覚や感情を喜ばせるだけのものではないのだと、タルコフスキーの本で初めて知った。
 『映像のポエジア』は難解だけれど、そこに書かれた言葉に通底する彼の信念は、……映画とは、やはり音楽や文学と同じく、映像を媒介として、監督と観客の、あるいは観客同士の、記憶の底で死にかけていた孤独な感覚を否応なく掘り出し、それを強固に繋ぐものであるし、それ以上に、映画製作とは、二度と再現不可能な「今」というリアル、おそろしい程に孤独な、全ての感覚が剥き出しになって、「これが現実なんだ!」と気付いて愕然とするような、いつもの自分がいかに寝ぼけていたかが分かるような瞬間、そんな誰にでも人生に一度は起こる、自分と世界との一体感を言葉抜きで自覚せざるを得ないような圧倒的なリアリティを、フィルムに刻印すること、……タルコフスキーの信念は、多分そういうことだと思う。人にはあれこれある。いろんな人がいる。でも「リアルな現在」はたったひとつしかない。
 例えば、今これを読んでいるあなたが、今まさにこれを読んでいるということのリアリティ。それは完全に掛け替えの無い「あなた」の感覚であるけれど、そのリアリティを支える、「今この瞬間」という感覚は、誰の中にでもきっと存在していて、その共通したリアルな感覚を通して、僕たちはおそらくお互いを自分と同様に、今まさに生きている存在として認め合える、というより、同じ時間を生きることが出来る。人はいろいろいる。でも、今まさに生きていることのリアリティ、つまり二度と戻って来ない今、この「今」は全世界の全ての人々に共通のものだ。
 そんな、記録することが不可能に近いような「今」をフィルムに刻むという作業を、確信をもって可能だと信じ続けたのがタルコフスキーなのだと思う。つまり映画製作とは、観客のリアルと地続きの、再現不可能な今を、しかも半永久的に残そうという試みであり、殆ど実現不可能な、リアリティの永続を夢見続けた、その結果がタルコフスキーの映画なのだと思う。決して、観客の感覚と感情に何らかの情緒的な影響を及ぼすことを目的としたものでも、監督の思想や世界観を比喩的に映像として表現したものでもない。もちろん、ただ単に爽快で、気持ち良くて、感動出来て涙を流せるだけの映画はあってもいいし、そういう映画は一生掛かっても見切れないほど、既にたくさんある。
 でも、タルコフスキーにとっての映画は、そういう視覚的で感情的な快感を催させるだけのものではないし、要するには人生で一番大切な、世界全体が今この瞬間自分と共に揺れ動いているのを目撃するような、後になれば「あれは何だったんだ? 気の迷いかな」と言ってうまく思い出せなくなるような、ふつう恋愛の最中にしか感じられないような、完全無欠で、あれもこれもどうでもよく、今生きているという絶対的な感覚以外何も問題とはならないような、リアルな生の感覚を、今であることの全てを、観客と共有出来る、彼にとっては唯一の手段であったのだと思う。
 もちろん、そういうショッキングな生々しすぎる瞬間だけではなく、平凡な生活や、人々の所作に対しての優しい眼差しも、彼は持っていて、常に観客が映画の中で生きられるような配慮も、彼は怠っていなかったと思う。タルコフスキーは映画の中に永遠に生きている。そして僕もまた、彼の映画によって今まさに、彼の世界を生きている自分を感じて、僕自身、今この瞬間以外に、何ひとつ問題になるものは無いのだと、その都度気付かされる。
 と、今まではそこまで考えたことがなかったけれど、僕がたまたまタルコフスキーの『ノスタルジア』が好きで、何度も見ているのは、やっぱり彼のリアリティに関する感覚の確かさを朧気ながら、彼と共有していられたからかもしれない。(タルコフスキーの『鏡』と『ソラリス』などを見たいのだけど、ネットでは見られないので、Blu-rayを買おうと思ってる。)


 もちろん、今書いたことは、映画だけに言えることではない。僕は今までも、音楽や言葉はそういうもの、つまり永遠の現在、束の間の永遠を、半永久的に残すことの出来る、ほとんどあり得ないくらいに奇跡的な表現手段だと思ってきた。
 音楽と言葉の美しさについては、今までにもたくさん書いてきたけど、また書いてみたいと思っている。音楽と言葉が完璧であることは、僕にとっては自明なことなので、寧ろ書きにくいかもしれない。
 とりあえず、言葉についてその内書きたいと思っていることは……、言葉は説明や伝達の手段であるだけでなく、もともと原始時代に言葉が発生した瞬間から、それは驚きと共に発せられる詩的なものだったと思う。言葉は現代では、直線的な生活や社会の論理、つまり機能性ありきで書かれることが多いけれど、寧ろ詩や夢の論理で書かれるのが、言葉のもともとのあり方だったと思う。
 言葉を呪術的なものとして捉えていたり、言霊を信じていた昔の人の方が、言葉の不思議さを、今の人よりずっと正確に、身近に感じていたと思う。
 頭で考えられることは、本当に本当に少ない。僕は自分の頭の悪さを嫌になるくらい感じているので、自分の頭から出てくる言葉よりも、自分の細胞や指先から出てくる言葉の方を信じている。でも今は、僕はこのすかすかの頭で考えたことばかり書いている。自分の細胞の声に耳を澄ませることを忘れている。
 頭は言葉を産まない。少なくともろくな言葉を産まない。実際に書いているのは頭ではなく、キーを叩く指先だ。端的に細胞の声を、脳を介することなく、指先で描けたら最高だと思う。それは本当に、とても気持ちいい体験だ。脳が身体を忘れると、身体は脳抜きで勝手に踊り出す。僕は僕という自意識と、そこから出てくるくだらない自己嫌悪に充ちた言葉から離れたい。
 自分が生きていることは、自分についてだらだら考えてることじゃなく、世界の歌や光や、自分の身体の生命感や、流れる内面の声に耳を澄ますことだ。書くことは観察すること。自らの言葉の強度を常に更新していきたい。頭に出来るのは、言葉に強度を与える為の材料を収集することだけ。ノイローゼになるくらい頭で考えて、そして考えたことを全て忘れること、その繰り返し。
 (少し疲れたので、眠ろうと思う。)

6(眠る前に)
 今、考えが理屈っぽくなりすぎていて、少し不穏な感じがするので、何時間か休もうと思っています。さっき映画のことなどについて神経質に書き進めたので、少々疲れています。僕は読書も書くことも大好きですが、それについてはまた書こうと思います。書くときは必ずヘッドホンかスピーカーで音楽を聴いています。音楽から離れると、僕はきわめて生きにくくなるし、音楽を聴けない時間は苦痛です。映画が魅力的に思えてきましたが、音楽と言葉の、それぞれに特有の魅力についても書いてみたいです。
 全ての表現に共通する魅力は自意識の発露ではなく、自分を含めた世界を客観視することにあると思っています。つまり世界も人も、頭で考えて簡単に言葉に出来るような論理には全然従っていないということ、その論理の外にあるものを意識することが、表現の始まりだと思っています。
 「今自分が生きているこの感じ」が既に論理的ではありません。その、言葉に出来ない現実を無心に見詰めることが、客観視することだと思っています。
 と、偉そうに書きつつ、僕には客観視なんてまるで出来ていません。表現とは、特定の表現手段のことではなくて、ただ生きていることも、お喋りをすることも、ブログを書くことも、みんな等しく表現だと思っています。生きていることは素晴らしいことです。僕はその素晴らしさを僅かながらでも感じられる人になりたいです。
 自分という枠組みにこだわらず、他人を含めた世界の全てや、その細やかさ、生活の一瞬、そういう「何もかも常にこうある、ただある」という世界の生理学的側面と共に、僕を含めた人たちそれぞれが持つ悩みの回路の複雑さや、人間が動物だった頃には持てなかった神経の病理学的かつ魅力的な側面を、現実に対しての抗議の数々や、人たちの願望の実現の可能性、悲しさ、寂しさ、全ての人が個人的な思い出の中に立っていること、そして、にもかかわらず世界が美しくて楽しいことを、いつも感じていたいです。
 そして形容されていない景色や気持ち、ほとんど形容が不可能な感情や感覚が多過ぎるという、言葉の不完全性、日本語という言語の無力さから力を得つつ僕は書くだろうと思います(もちろん外国語も学びたいですが、それは言葉を豊富にはしなくて、寧ろ欠落を多く知ることに繋がると思っています)。
 言葉による表現への欲求と、もう一度でいいから「楽しい」と本当に感じられたら、という希望に支えられて、希望を引きずりつつ、希望に引きずられて、僕は生き長らえています。書きたいことがあるし、僕は神経質さを忘れて、いつかはまた、元気に、完璧に楽しく書きたいです。
 僕は個人的な人間です。個人的な人間としての誰かに出会いたいです。どうしても現実感が希薄で、近くにいる人たちまでが、命の無い存在にしか見えない、という危ない状態に陥ることがとても多いです。個人的な人間としての誰かに本当に出会えたなら、それだけで死んでしまっても悔いがないくらい、僕は、そして多分誰しもが、繋がりに飢えていると思います。人間とはそういう生きものだと思っています。


散文(批評随筆小説等) メモ(主に映画についてのこと) Copyright 由比良 倖 2024-09-17 18:18:14
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