白紙への長い旅
ただのみきや

残らず文字が飛び去った詩集を開いて
男は夢を見ている

白紙の上に万象を結び付けていたものがなんであったのか
ことばという記号はうさん臭かったけれど今はむしろ生臭くさえ感じている
実体験も夢も見聞きしたことも妄想もその被膜をなくして侵食し合い
記憶は流転する立体曼荼羅として三次元から解放されていたが
神的視座を持たないミラーボールは両の瞼を縫われた月
自分を殺すほどの妄想力で八百万の視線のムチを浴びての回転舞踏は
慣性にすぎなかったし所在不明な真ん中の漏斗から自己らしきものが流出して
徐々に空ろは増すばかりだがおそらくは不在の対称としての
半身の柔らかな器の朝に銀を含んだ灰のように舞い散って
死の比喩を匂わせる それこそ詩に擬態した諦念の羽化であり
紡がれぬ繭から匂う致死的媚薬だろう


残らず文字の飛び去った詩集を開いて
男は夢を見ている

白紙の平原を渡り
やがて白紙の谷にたどり着いた
男はそこで白紙の女をめとった
その女はかつて鳥葬にされた一編の詩であった
男は白紙の岩の割れ目から女をつかみ出した
白紙と白紙に違いを見出すことは簡単なことだ
記号でうまった世界が記号で互いを見分けるように
白紙は白紙で互いを見分けていた
男は白紙の墓となり
男の中で白紙の女は吹雪のように渦巻いた
女は歌った声もなく形もなく
男にしかわからない仕草で肢体を奏でながら
色も匂いも響きもなにひとつ白紙の墓から漏れはしなかった


残らず文字の飛び去った詩集を開いて
夢を見ている男

白紙の海へ下げ振りを沈めて測るものは角度でも深さでもない
自分自身が錘であって現世との細い繋がりを残したまま
深く沈んでゆく記号に特化したむき出しの五感なのだろう
わたしが現世に残すものはかつての記号たちの断末魔の影にすぎず
魚信は無限の孤独が呼び起こす癇癪による自作自演かもしれない
詩は身体の一部を切り取られて血を流す傷ついた現実の震える絶叫
だから翼を片方切られた鳥や千切れかけた蝶のように眼差しを手繰り寄せ
虚空の琴線や水面の鏡に得も言われぬ自分にすら隠匿された震えをもたらすのだ
創作は破壊であり快楽は悲しみと痛みに裏打ちされる
吐瀉物のごときことばが子気味よいリズムで袋小路の壁に人型の染みを残すと
そこに自らの影を重ねることで絶頂に達し得ない自慰行為が複写されてゆく
そう目撃者ばかりで犯人のいないつかみどころのない憂鬱を鳥籠で飼い
自分を深く愛することで死に誘うまことしやかな唇の鬼火
瞳に触れてジュっと鳴る火獲り蛾のささやきのように


残らず文字の飛び去った詩集を開いて
男は夢を見ている

書く前に白紙があるのではなく
書かれたものが失われて初めて白紙になるのだ
自分が白紙になるためには
まずは自分のすべてを詩に変えて描き出し
その後でそのことばの一切合切を剥奪されること

だが世界からことばが消えた時のことを
ことばで考えことばで論じることは不毛
今はただ小さな仔猫の姿を真上から見つめるばかり
それが何であったのか思い出せなくなるまで



                            
                         (2024年7月21日)










自由詩 白紙への長い旅 Copyright ただのみきや 2024-07-21 14:37:15
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