閃篇5 そのご
佐々宝砂

1 失恋

これが恋を失うということなのか。初めて知った。初夏の空は暗くなりかけてそれでもまだ真っ暗ではない。私の心のようだ。私は大好きだった人を見つめる。度の強いメガネ、茶色っぽい癖っ毛、いつも少し笑っているようなくちびる。大好きだった。でも、もう、大好きじゃない。私は自分の心の変化に気づいてしまった。これが失恋なんだと思う。私は今日私の恋を失った。

2 最悪

彼女は自分が開けた箱の中を見つめた。暗い穴のように見える箱の中。もうきっと何もない。何もないことを祈りつつ彼女は自分がやってしまったことを考える。不和、諍い、疫病、嘆き、盗み、嘘、老衰、疑い、嫉妬、ありとあらゆる世界の悲しみと夜の子どもたちを彼女は解き放ってしまった。「最悪だ…」と涙する彼女の耳に小さな明るい声が聞こえる。「最悪です。ほんとに最悪です。つまりこれ以上悪くはならないんですよ」…パンドーラーは顔を上げ声の主を探す。最悪の次にやってくる何かを。

3 相合傘

相合傘は肩が濡れてしまうから嫌いだと思いながら、道の先を行くきみを見ている。きみと相合傘したことが一度だけある。きみが覚えているかわからないが僕はあのとき雨に濡れたきみの髪が僕の首に貼りついたのを覚えている。今、きみの相合傘の相手が誰かわからない。僕は足を早めて追い抜きながら相合傘のふたりの顔を盗み見る。きみは柔らかく笑っていた。それはいい。相合傘の相手の顔が黒く塗りつぶされた穴のように見えた。それは僕の心のせいなのか、それとも本当に黒い穴のような何かだったのか。

4 あなたがいたから

あなたがいたから生き延びることができたのです。この氷に閉ざされた島に、あなたは私と一緒に打上げられた。覚えてはいないけど、あなたは私と同じ船に乗っていたのでしょう。当初私は淋しくて息をしていないあなたに何度も話しかけました。救助された私は島に向かって手を振ります。ありがとう、名前も知らないあなた。あなたが持っていたライターで焚き火を熾しました。あなたが持っていたカッターであなたの肉を削ぎ落として焼いて食べました。あなたがいたから私はいま生きています。

5 落下

古めかしい塔を登りきり、手すりを乗り越えて落ちる、ひゅんと背筋が冷たくなるような落下の感覚、でも落下の衝撃はない。衝撃がないことに安堵して覚醒し、自分が布団で寝ていることに気づく。以前はそんなことがよくあった。ミオクローヌスというのだと思う。寝入る前にもよく落下の感覚があった。今はない。夢の中の私は落ちるところまで落ちたのでもうこれ以上落ちないのだろう。あの落下の感覚がなつかしい。


自由詩 閃篇5 そのご Copyright 佐々宝砂 2024-06-20 20:48:48
notebook Home 戻る
この文書は以下の文書グループに登録されています。
閃篇