お客さん
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 蝿の唾液の味というものは
 全体にくぐもっている輪郭と
 妙に痺れるようなさらりとした芯で構成されていて
 鈍い光を反射する鉄釉の盃の縁を
 六本の脚で複雑に
 同時に滑らかなことこの上ない優雅さで駆け抜けながら
 点々とくちづけして残された
 蝿の唾液の味からは
 何というか
 いつもしゃっきり人に接せざるを得ないでいる
 日常の
 心のすき間にわだかまる
 不安定さが露見してしまうほど
 甘美といえば甘美だ

 「お客さん、ようこそいらっしゃいました」
 帰宅して窓をごとごとと開いて
 氷を詰めたゴブレットにジンをごぼごぼと注ぎ
 ゑびすさま共々に傾けていると
 飛び込んでくるのだ
 生まれは?
 歳は?
 聞きたいことを聞かぬのが酒注ぎの思慮ならば
 カーテンがテーブルに投げかける
 淡いゆらゆらとにじむ光と影が織りなす音楽に
 興味を抱いた訳ではなかろうが
 その背中で震えている翅の発する愉快な音型が
 このお客さんが浮遊する度に不断に耳にする
 滑らかな発声のひとつなのだと思おう

 「お勘定」といった野暮な科白ひとつなく
 現れた時と同じくらい
 唐突に窓をくぐり抜け
 蝿は私の
 この一時の愉快な孤独など知りもせず
 ただの孤独へと私を振り返らせる
 ああ、あの唇のなんと奇妙な
 それでいて彼には至極自然なのだろうその造形
 或いは彼女
 彼女はこの僅かな時間の裡に
 受精しきった卵を産みつけなかったと
 誰が言えただろう
 私には言えない
 そろそろたばこが欲しくなってきたからだ





自由詩 お客さん Copyright soft_machine 2024-06-12 06:15:06
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