手遅れの手前
ホロウ・シカエルボク
落ちぶれた世界の歯軋りが俺を眠れなくさせる、飲み干した水の入った、コップの底に張り付いていた潰れた小虫、排水溝の向こうで今頃、呪詛を吐き続けているだろう、小さいから、弱いから、儚いからで納得ずくで死ねるわけでもないさ、熱い湯を出して頭からかぶり続けた、ナルコレプシーみたいな脳髄、クリアーにならない理由が欲しい、水を飲んだグラスは少しのミスで欠けた、だから流しの中で叩き壊した、手のひらで集めて生ごみに混ぜ込んだ、案の定切れた左手の人差指、血が止まるまで水をかけ続けた、深い傷ではなかったけれどなかなか血は止まらなかった、まるで生命が俺の身体から根こそぎ逃げ出そうとしているみたいだった、彼らを閉じ込めておくために絆創膏を買いに行くことにした、一番近いコンビニまで歩いて5分程度、延命措置にはおあつらえ向きの時間だった、理由になど何の意味もないが状況をスマートにするくらいの役には立つ、レジには人妻みたいな色っぽい女が居た、長い髪を後ろで纏めていた、ゲンズブールの女だったころのジェーン・バ―キンみたいだった、隣のレジでは目の落ち窪んだ背の高い男が退屈そうに立っていた、俺は絆創膏の棚から近かった女の方のレジに立った、いらっしゃいませ、と女が小さくお辞儀をした、前職はホテルのフロントかな、なんとなくそう思わせる仕草だった、隣の男が続いて、らっしゃっせ、とガス漏れみたいな声で言った、俺は女が読み上げた金額を払った、金を手渡すとき女があら、という顔をした、帰ろうとする俺を呼び止め、ティッシュをどこかから取り出して俺の指を拭いてくれた、「すみません、血が出ていたものですから」俺は自分の指を見た、ああ、ごめん、と俺も詫びた、「たいした怪我じゃないんだけど」良ければ張ってあげましょうか?と女は続けた、「ご自分で張るの大変じゃないですか?」ちょっと、と隣の男が割って入った、「仕事じゃないことまでしないでくれますか?叱られるの僕なんですから」男は心底ウンザリしているように見えた、あら、ごめんなさい、と女は笑顔で答えて、それから俺の方を見て、それで、どうします?と尋ねた、男は舌打ちをしてバックヤードへと消えて行った、それならご厚意に甘えて、と、俺は絆創膏を女に渡し、人差し指を立てた、女は手早く準備をしてあっという間に張ってくれた、「はい、毎日張り替えてくださいね」前職は看護師だろう、と俺は冗談を言ったが、本当だった、苦笑しながら俺は女に礼を言った、女はありがとうございました、と丁寧に言った、そんなときの調子はやっぱりホテルのフロントみたいな感じがした、コンビニを出た俺はすぐに帰る気にもならず散歩をすることにした、空家に関する新しい法律が出来て、古い街の空物件は次々と更地になり始めていた、地区によっては小規模な爆撃でもあったのかというほどの真っ新な土地ばかりだった、世界はすでに滅んでいるのかもしれない、真夜中に散歩をすると時々そういう気分になる、でも、もしかしたらもう少し早く滅ぶ予定だったのかもしれない、今夜はそんな風に思った、傷口を絆創膏で張るみたいな往生際の悪いささやかな延命措置が滅びを遅らせたのだ、新しく何かを始めなければならないときに、それまでと同じやり方を繰り返すことしか出来ない連中、自己満足をひけらかしているうちに足元はどんどん不味い状況になっていく、高みの見物を気取るつもりはないけれど集団の思想なんて俺にとっては取るに足らないものだ、規則に反してまで客の指に絆創膏を張りたがる女みたいなやつがもっと居ていい、実際女の絆創膏の張り方は見事だった、水に強い分厚いタイプを買ったのだが、少しの締め付けも感じないくらい絶妙なラインでそれは俺の指に巻かれていた、爪の周辺や関節のあたりにもまるで隙間は見つからなかった、もしかしたら親切心とか前職が染み付いたとかそういうことではなく、あの女は単純に他人の指に絆創膏を張るのが好きなだけなのかもしれない、いっそそう断言された方が深く頷けるような絆創膏の張り方だった、本当はすべて、そんなささやかなことなのだ、こましゃっくれた思想や大義名分など必要無い、絆創膏を最高に上手く張るとか、掃除を欠かさないとか、朝食をきちんと取るとか、そんな小さなことにこだわれるやつらがきっと世界を少しマシなところに留めている、夜明けが来るまで俺は歩き続けた、休みの日を寝るだけで潰してしまうかもしれなかったけれど、もうそんなことはどうでもよかった、明け方、小さな山の上で死んだ猫を見た、特別外傷のようなものは見当たらなかったけれど、車に跳ねられたのだろうことは想像がついた、猫は、自分がまだ生きていると信じているみたいにビー玉のような目を見開いていた。