孤独な口づけ
鳥星

 シュルレアリスムを隠れ蓑にして、詩を書くのはやめたんだ。僕は現実を見つめて、自分の弱さと対峙して、肉と骨と血の滴る生々しい詩を書くんだ。シュルレアリスムなんて格好付けているだけだ。DADAの仮面を外して、自分の醜い顔面を曝け出すんだ。メタファーなんて今ではもう空々しい概念のひとつだ。僕は何を書き写すか? 人生を書き写す。生活を書き写す。人間を書き写す。心を書き写す。僕はもう疲れてしまった、作り話を弄することに、心を偽り続けることに。かつて、詩は青空の向こうに遠く聳えるカフカの城のようなものと捉えていたが、今ではこんなにボロボロになった指先の中にも詩が宿るのではないかと考えている。創作の源泉を遠い存在から身近な日常の中に知覚するということ。想像力は、人並み程度に、否、少しだけあればいい、微量でいい。皆無でも構わないかもしれない。事実の前に、全ての想像力は容易くのたうち回るのだから、汝は想像力の無力さを思い知るべきである。そもそも僕は想像力の欠片もない無能なのだから、これからは僕の人生における思い出の数々をただ書き写すだけの作業に入るだろう。

 どうして心を閉ざしているの? と昔の彼女に問われたことがあった。何人目かの彼女だった。彼女の姉の車の中で二人きり、一つ歳上の彼女に、どうして心を閉ざしているの? と問われたことがあった。僕は、心を閉ざしていないと答えた。深夜3時だった。彼女の姉の車は駐車場に停まったまま、冬風に囲まれていた。僕は17歳で、彼女は18歳だった。彼女は鬱病のために精神科に通院し、時折入院することもあった。僕も鬱屈した精神を抱き抱えて苦しみながら生きていたが、精神科には通わなかった。彼女の家は僕の家から歩いて40分程度だったから、いつでも会いに行けた。寂しい気持ちで僕らは繋がっていた。僕は孤独だった。彼女がいても、友達がいても、いつもいつも何かが欠けていた。大きな欠陥が僕の胸の底に穴を開けた。だから何もかも零れ落ちてしまった。贅沢な悩みだと思うかい。彼女がいても、友達がいても、僕の作り笑いは間抜けなほどに見え透いていて、僕の自殺願望が自分の首を絞めることがあっても、その息の根を止めることはしなかった。ある日、17歳の僕は自分の部屋で首を吊った。訳の分からぬ不安とか将来に対するぼんやりとした失意の中で首を吊った。生きていることを実感するために首を吊ったとも言えるかもしれない。少なくとも死ぬために首を吊ったのではなかった。気を失う寸前に、自分の首から縄を外し、自分がまだ生きたいのだと確かめることができると安堵するのである。

 僕は夜道を彷徨うのが好きだった。一人ぼっちで自分の家から遠くまで歩くのが好きだった。あえて知らない道を選び迷子になり、それでも彷徨い続けるのが好きだった。時間の無駄だと知りながらも、当てどなくクラゲのように漂い続けた。睡眠欲を押しのけ、時折、ガードレール等に腰かけて詩を書くのが好きだった。自分だけの楽しみ、自己完結された狭い世界の中で、僕は生きていた。夢がなかった。目標がなかった。愛が分からなかった。貧しかった。何のために生きているのか分からなかった。遠く遠く足を運び、知らない街から知らない街へ辿り、夜明けの薄青色の光に街が少しずつ染まる頃、僕は疲れ果て、今度は踵を返して何時間もかけて帰宅するのである。そして朝の光の中で、柔らかな布団の中に包まって、眠りにつく。それが幸せだった。行き場のないエネルギーに狂った心が、それだけで宥められた。僕は片親で、母親しかいなかったが、母親は精神病院に入院していて、家の中は僕一人しかいなかった。精神病院は海沿いにあり、涼しい気配がいつも病室に漂っていた。彼女も母親も鬱病で、同じ精神病院に入院していた。彼女は母親のツテで知り合い、彼女からのアプローチがあって付き合い始めた。

 どうして、心を閉ざしているの? 彼女がそう尋ねる。僕は、心を閉ざしていないと答える。だったら、どうして泣いているの? と彼女が聞いてくる。僕は自分でも気付かぬうちに涙を零していた。分からない、と僕は答えた。深夜3時。駐車場に停まった車の中で、僕は静かに泣いていた。彼女は、こう言った。神様は、その人にしか乗り越えられない試練を与えるのよ、きっと。僕は耳が悪かった。耳が悪い僕のために、ゆっくりとした口調で、健聴者の彼女は優しく語りかけてくれた。彼女の瞳は優しかった。声も優しかった。僕は、何のために生きるのだろう。どうして耳が悪いのだろう。右耳につけた補聴器を外せば、無音。何の音も聞こえやしない。補聴器をつけた所で、雑音じみた世界の中で一人ぼっちになるだけだ。彼女は、天使のようだった。二人、手を繋いで、キスを交わした。どうしようもない心の痛みを、傷を舐め合うような口づけだった。


自由詩 孤独な口づけ Copyright 鳥星 2024-04-02 10:41:30
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