鏡像 【改訂】
リリー

  終章 「冬日和」



 「豪州産切落とし牛でいいんよ! これと、鶏のモモ肉にしよ」
 「お肉、八百円いってないわっ」
 「タレはさ、こっちの使い切りサイズで料亭の味っていうフレーズのに
 しとかへん?」
 「そおやな」
 「よし。ほんなら、白菜はこのザク切りなってるやつ、六十円やで」
 「春菊もやめて、この百円のほうれん草でいいやん」
 「安く買ってさ、費用を酒代へ回すんや!」
  びわ湖から流れ出る瀬田川の上流へ向かって細長い公園がある。友人
 と二人、公園の側のスーパーで食材を買い込む。
 「いい天気なって良かったなぁ!」
 今年は菜種梅雨の入りが早く、近頃ぐずついた空模様だったのだ。

 「ええ所やんか、ほんまに。こんっな便利な場所で家賃三万て凄いわ。
 上手に探したな」
 「そやろ! 紹介してくれはった不動産屋がな、良かったんや」
 「桜、咲いたらさ……あの公園で花見しようや。お弁当作ってさ」
 「楽しみやなあ!」
  京阪電車の最寄駅から徒歩十五分程、湖東岸を北上する県道を傍道へ
 入った静かな住宅地で
 「あそこやねん」
 友人が、二階建てのアパートを指差した。二ヶ月前から、彼女の新しい
 生活は始まっていた。

  私より二歳年上の友人とは、現在の職場で四年前に知り合った。部署
 は違うけれど、同年代が集まる忘年会や飲み会の席で気が合い、食事や
 飲みにも行くようになったのだ。
  二人で飲み交わすお酒は、時に重かった。行きつけの酒房では、入り
 口から一番奥まったカウンター席に座る。或る日の彼女は、三杯目のグ
 ラスを掴み取ると氷を一つ、頬張ってガリリッ! と噛み砕いた。
  大腿骨を一度骨折してから足腰弱り、外出時の歩行も困難な彼女の母
 親は、本人が自覚を持たないでいる認知症だった。離婚して出戻った長
 女との二人暮らしでは、口だけが元気。どうしても互いの感情が、絡ん
 でしまう。
 「あんた、……どうせあたしなんか、早く死んでしまった方がいいと思っ
 てるんやろ!」
 「なんでそんな事言うのっ、そんな事誰が思ってるんよっ! 情けない
 わっ!」
 時折、厳しい言葉が口を吐いて出てしまったらしい。
  そんな話をする彼女のロックグラスには、いつも川がみえた。常に影
 を落として、ものうく……絶え間ない流れであり。その底深く、激しく渦
 巻くのである。
  一日中、殆ど陽の差す時が無く。覆いかぶさった樹々からしたたる大
 きい滴に、川面は驚いた様な波紋をおこすだけであろう。その絶え間な
 い流れが、常に影を落としながら彼女の溜め息を引き受けていた。ほん
 の一瞬、水底に魚の姿を認めたけれども、彼女もわたしも最早若くはな
 い。
  そして母親の施設への入所を決断した娘の選択は、それを拒否しな
 かったという母の選択でもあったのだろう。

 「明るい部屋やな! 南向きで最高やん」
 「うん。落ち着くし、いいやろう!」
  二階の玄関の扉を開けてキッチンの床へ買い物袋を置き、ワンエル
 ディーケーを見回す私へ誇らしげな笑みを返す彼女。
 「大家さんも優しくて、いいご夫婦なんやんか! あたし、ついてた
 わ」
 「大家さんが、いい人なんは何よりやなぁ!」
 一時間程して小さな炬燵の鍋敷には、煮えているすき焼き鍋が運ばれて
 来る。
 「さあ! では、いただきましょう!」
 友人が冷蔵庫から出したロング缶のビールは程よく泡立ち、引っ越し祝
 いの乾杯の音頭を取る私に
 「ありがとう」
 とだけ言うと、一気に半分以上飲んでグラスを置いた。
  施設へ入所した彼女の母親は、面会で訪れる娘を分からず孫の名を呼
 んだらしい。
 「施設では、自分から人へ話し掛ける事があんまり無いから。大人しく
 してるやろ、それで……。表情も乏しくなるんよ」
 数日前に、それを電話で聞いていたので彼女の現在の心境にわだかまり
 有る事は分かっていた。それでも私は、この時南向きの六畳間を喜ぶ笑
 顔へ乾杯をしたのだ。

  友人のアパートからの帰り、瀬田唐橋で夜川の風は生ぬるかった。昼
 間は、ボートを練習している人達の姿もあった。今、欄干からは何も見
 えず。前方に対岸の夜景が拡がって、不意にそれらの燈は万華鏡を覗き
 見るような回想へ、私を引きずり込んだ。
  橋を、渡りきれば駅へ向かう真っすぐな道。街灯で浮きあがる人影は
 聞き取れない言葉を耳に残す。そして踏切の警報音に私は、遮断機が下
 りる前に渡った。
  早春の、無人駅に一人っきり。向かいの線路で停車する、乗客のまば
 らな二両電車が石山寺駅方面へ発車する。目を落とせば、そこには敷石
 と古びたマクラギ、焦茶色に錆びついたレールが在るだけだ。
  わたしの乗る電車は、まだ来ない。



                【完】


  


散文(批評随筆小説等) 鏡像 【改訂】 Copyright リリー 2024-03-25 09:46:26
notebook Home 戻る