鏡像 【改訂】
リリー

  第八章 「戦力外通告」


  私を乗せる診察ベットのキャスターは、真夜中の廊下をキュルキュル滑
 りながらレントゲン撮影室へ向かう。再び救急医療診察室へ戻って来ると、
 若い当直医はデスクのトレース台に胸部と下腹部のレントゲン写真を並べ
 て見ながら言った。
 「明日ね、呼吸器内科受診してください。婦人科の内診と、X線CT検査と
 MRIの予約取ります。僕、整形外科だから。あなた、腰も悪いですねぇ……。
 随分前から悪いでしょ。とにかく解熱剤出しましょう」
  私の目は四十度超える発熱で朦朧としながらも、診察室の壁掛け時計を
 確かめる。午前四時前になって、婦人科病棟の四人部屋へ車椅子で運ばれ
 た。下腹部エコー検査では、子宮の肥大と左卵巣に腫れが診られたのだ。

  翌日、午前中に呼吸器内科を受診して、午後から婦人科の予約内診を済
 ませる。急性気管支炎の症状もあり、二週間の治療と安静を要する診断が
 下された。
  入院して三日経ち、病棟にまだ配膳車の上がって来ない夕方、見舞いに
 来てくれた母方の叔母へは、ぐずぐず文句ばかり言ってしまう。
 「叔母さん、明日また造影剤注射されるんやんかぁ。アレ、気分悪なるし
 嫌やねん……」
 「必要な検査なんやし、仕方ないわよ」
 X線CT検査では、ヨード造影剤の副作用で暫く吐き気や眩暈、頭痛があっ
 た。
 「月経を止めるホルモン剤治療するらしいねん。男性ホルモンを体内に入
 れるんやって。そんなん! 怖いやんな……。髭とか生えてきたらどうすん
 のよ!」
 「分からん事、ちゃんと全部先生に聞きなさい!」
 「先生て中年の男の人でな、インテリ臭いんや。難かしい用語ばっかり
 で、話してはる事がさっぱり分からへんねん」
 そんな話の途中に、ベット傍の生成色のカーテンの影から呼び掛けて来た
 聞き覚えのある声は、
 「どうも……お邪魔します。あだちさん、白井です」
 突如現れる老人ホームの主任。
  叔母は病室で、主任へ丁寧な挨拶をしてくれた。本人に頑張る気持ちは
 あっても、身体への負担が大きい様で今回ご迷惑をお掛けしてしまったと、
 私と一緒に頭を下げてくれたのだった。
 「いえ、いつもよくやってくれているので。疲れが出たのでしょう。何も
 心配せず、ゆっくり療養してください」
 主任は、容態の経過をうかがうと私達へ笑い掛け早早に立ち去った。この
 時、もし叔母が居なければ主任は私へ個人的に伝えたい事があったのだろ
 う。退院後思い返せば、その様にも推察出来る。

  職場へ心苦しい想いのあるまま退院してすぐに出勤すると、朝礼の後で
 新館の寮母室へ呼び出される。五十代のベテラン二人も席に着く前で
 「ここは、あんたのいる所やない。考えなさい。あんたの為に、言うてる
 んや」
 それは何とも言えない冷たい口ぶりで、胸に刺さる迫力があった。
  もう寮母室の魔の二月だったカレンダーはめくられて、どこかの桜の花
 の写真に変わっている。

 「あだっさんはさ、施設とかの仕事に向いてないんちゃうかなぁ……」
  年度末の三月も半ば過ぎ、夜に降った雪が道に溶け残る寒い日。私が病
 室で一人だった午後に、畳んだ衣類の収まる大きな洗濯カゴを提げるミズ
 ノちゃんが、立ち寄って話し掛けて来た。
  病室担当の先輩は、寮母室で措置台帳の日誌を書いており、もう一人は
 多目的ホールで、手伝ってくれる自立入居者さん達と洗濯物を畳んでいる。
 「なんで? ……」
 私は、病室の人達にベットで腰掛けてもらいポリバケツで足浴をしてもらっ
 ていたのだ。石野さんの足を、湯の中でさすりながら尋ねてみる。
 「優しいんやって……。素直やし、正直っていうかぁ。組織に向いてないと
 思うねんなぁ。もっと、あだっさんを生かせる働き方がある様な気がする
 んや」
 「向いてないかなぁ……」
 「うん」
 「ミズノちゃんは、なんで高齢者福祉を選んだんや?」
 「あたしは……専門学校入って、コース選択したらたまたま。障害者福祉で
 もよかったんですけどね。あだっさんは?」
 「ん……。あたしは最初ボランティアで此処に来て、そのまま准職員なって
 んやわ」
 それしか、彼女へは返答しなかった。何故、高齢者施設の現場で介護支援
 に携わりたいと思ったのかを、誰にも話した事は無かったのだ。
 


  第九章 「夜光雲」


 「メシ食いに行かへんけ?」
 「今、何時やと思ってんの?」
  金曜日に二十一時も回ってから高校時代の同級生が電話をかけてきた。
 「ええやんけ。俺、明日休みなんや」
 「あたし休みちゃうやんか!」
 「ええやんけ。ちょっと付き合えよ」
 当時ちょうど携帯電話の出回り始めた頃で、大橋君はもう私のマンションの
 下に居ると言う。
  卒業してからもたまに連絡をくれる、この日の彼は、守山方面へ車を走ら
 せた。

  県道沿いにある店構えが居酒屋風な、大きな店のガレージで駐車する。店
 内は空いており、大きなボックス席で向かい合う彼が店員のお兄ちゃんに、
 お好み焼き一枚と生野菜サラダに、おつまみの唐揚げを注文した。
 「お前、なんか飲んでもええんやぞ」
 「いや、あたしジンジャーエールでええよ」
 二児の父親である彼の事は、奥さんが浮気しているという話を彼から聞いて
 いるぐらいで、よく知らない。
  鉄板のミックス焼きをヘラで切り分ける彼は、尋ねてくる。
 「どうなん? 最近て。どうしてんの?」
 「いや別に。変わりないよ」
 「めちゃ痩せてるやんけ! まだホームに居んの?」
 「うん」
 「お前ぇ、もっと深く座れよ! なんか飲んだら? 酎ハイとかさぁ」
 メニューを差し出す彼が、あんまり薦めるのでカルピスの酎ハイを注文して
 みる。飲み進めるうちに、老人ホームの退職を考えている事を口にしてい
 た。
 「その方がええんちゃう。今のお前には向いてない」
 「なんでやの?」
 「前を見てない」
 お前は前を見てない。過去よりも、未来へ目を向けるのもな、大事なんは
 現在なんや! その人にとっての「前」があるんやぞ。そもそも何で、今の
 仕事に就いたのか? と彼は尋ねる。この時、初めて亡き母との七年間に渡
 る闘病生活を彼に語った。
 
  市民病院に長期入院していた一人親の母は、身辺介助で若い看護婦さんの
 手を煩わせる事へ躊躇した。尿の管が取れポータブルトイレになると、自分
 を情けながり真夜中でも容器の処理を私へ小まめに求めた。早朝の身体の清
 拭、洗髪や入浴介助も私には初めての経験だから上手く出来るはずも無かっ
 たのだ。
  洗い物は自宅の洗濯機でと希望する母の為、運転免許を持っていない私の
 通院は大変で、地元に住まう母方の叔母が協力してくれた。
  明け方に病院の屋上で、手摺にもたれながら鉄道をながめた日、走り去っ
 て行く貨物列車の響きが耳に残った。ある日、晩夏の空の高い所に、白んで
 きた東の光を反射する青みがかった輝色の巻雲に似た雲を見た。暁に怖れを
 なして迷っているのか? あれは、夜光雲かも知れなかった。
  体力の衰えが進む母へ
 「何か、して欲しい事はないの?」
 お見舞いに来る人は、それが言えるのに。私に気持ちの余裕は失われてし
 まっていた。けれども、お便所の洗い場で大きなポリバケツに足浴のお湯を
 溜めている私の背中へ、声を掛けてくれる看護婦さんがいた。
 「患者さんの足を見ればね、全てが分かるものなのよ。」

  享年五十四歳で逝った母は若かったのだ。満足な看護も出来なかった私
 は、母の老いを知らない。母へ出来なかった事を誰かにすることで、償いた
 かった。
 「お前がお母さんを好きでいる、それ以上にお母さんは、お前のこと好きな
 んやぞ。償いなんかよりも、もっと自分を大事にして欲しいんと違うんか
 な」
 親ってのはな! そういうもんや……と言う彼の言葉に説得性があった。

 「佐々木さぁん! 行ける行けるっ!」
  施設の中庭では、自立入居者と軽度の要介助者の人達とで軽量な柔らかい
 スマイルボールを使い野球をしている。事務員さんの結婚式で次長や主任、
 副主任も皆が、留守だった。
  入居者さんに投げてもらった緩い玉を、真剣にバット振って痛烈な当たり
 で歓喜の声を挙げ、一塁に居る八十歳近い男性へ回れ、回れと指示を出す寮
 母。その声が館内にまで響くと、
 「あだちの、リハビリなってるやん」
 食堂ホール前の廊下に出て来た木崎さんの声。若い生活指導員さんと二人が
 並んで、私へ呆れた笑い顔を向けた。

  まだ寮母を辞める決心のつかない私は、この日の午後、病室の人達の足の
 爪を切っていた。
 「病室の人の足は、いつも綺麗やわ」
 常勤の看護婦さんから、そう言われた事があった。
  みんなの爪を切り終えると喉が渇き、新館とを繋ぐ外廊下に設置された自
 販機の前でペットボトルを掴み取る。すると頭上から声がした。
 「ああ、もう蕾が膨らんでるなあ! 咲いてるのもある」
 新館二階の渡り廊下の窓から男性が、自販機の側に植わっている桜の木を見
 ているのだ。
 「えっ?」
 私も、その木を見る。太い幹の樹皮は、薄曇りな空からの陽差しを集めて渋
 い光沢を帯びていた。伸びる枝先のどこにも、ほころぶ蕾などは見えない。
  どうして? ……どこに、春が来ているというのだろう。もう一度、今度は
 渡り廊下に居る入居者さんの目線を追ってみた。
 「嗚呼っ!」
 やっと私にも、それが見えた。やっと、自分の目の高さから上を仰ぎ見れ
 ば、違う現在はあるのだと気付いたのだ。

  そして一ヶ月後、敷地内の桜が散った頃、私はもう施設にいなかった。




          【次回へ続く】


散文(批評随筆小説等) 鏡像 【改訂】 Copyright リリー 2024-03-23 06:50:41
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