鏡像 【改訂】
リリー

  第六章 「死の砦①」



 「な、見て。またやってはるわ……『松の廊下』」
 「ほんまやなぁ」
  午前の館内清掃へ向かう若手職員らが足を止める視線の先には、主任と
 副主任の姿。朝礼を終えた新館の会議室から、旧館へ戻る副主任を追いか
 けて来た主任。中庭に面する外廊下では、引き続き二人の論争がなされて
 いた。

  この頃、主任は若手職員らへも愚痴をこぼしていた。
 「嫌われ役になれへんかったら主任なんか、務まらへんのやで……」
 深刻化する職員の業務負担を軽減しようとする主任は、組織的なカリキュ
 ラムを優先する。旧館の長、副主任は多少なり時間と手間をかけても、入
 居者さん達へ柔軟性のあるケースバイケースな対応を試みようとする。竜
 虎相博であった。
  私達下っ端連中は、食堂ホールの大窓ガラスに映り込む中庭の碧い芝生
 を松に例え、ここを『松の廊下』と呼んでいたのだ。

  お便所掃除を済ませて担当する病室へ出向くと、先輩が西川さんの水分
 補給で介護用ベットの上半身を起こしていた。月に一度の通院以外は病室
 で眠っている西川さん。食事も流動食なのだが、少しでも離床出来るよう
 に車椅子で食堂へ移動してもらっている。
  痩せこけた躯で、窪んだ目ばかりがギョロリと銀灰色の閃光を放つ。言
 葉も無く無表情なのだが、ただ一言「ありがとう」と小声で言ってくれる
 人だった。

 「この間、娘さん来た時の西川さんの顔、あんな顔、私らに見せてくれた
 こと無いよなぁ……」
 「そうそう。私らは、毎日を共に過ごしてても超える事は無い『寮母』な
 んよ。一年に二回も面会に来ない娘さんでも、私らより西川さんにとって
 は……。そういう事やなぁ」
  私も見たのだ、あかい血の宿った西川さんの表情を。この娘さんと西川
 さんの親子関係の経歴までは、分からない。
  四十代半ばぐらいに見える娘さんは、西川さんが亡くなると預かり金七
 十万円を受け取り、葬儀も納骨も全て施設側へ丸投げして涙も見せず老人
 ホームを後にした。

  集会室で葬儀の祭壇へ参列する職員達。遺影は二年前、納涼祭の仮装行
 列で西川さんに、白雪姫で登場する毒林檎を持ったおばあさんを演じても
 らった時の和やかな写真。次長が、数名の入居者さんからの御焼香に頭を
 下げて
 「ありがとうな……」
 呟くように言った。私達へも
 「ありがとうな……」
 そう、言葉を繰り返したのだった。
  「寮母」とは、何なのか?私は考えながらもこの時、答えを求めようと
 しなかった。



  第七章 「死の砦②」


  急な傾斜で前方から下って来る軽自動車と、道路傍に停車してすれ違え
 ば、再びエンジンかけて一気に登り切る赤い4WDのコンパクトカー。
 「ああ、またやっ」
 「停まってるな。誰やろな、今朝は……」
 助手席の私が、老人ホームの正門から見える救急車を指差した。正門を入
 り、その横を過ぎると救急隊員の姿は無かった。駐車場へ車を停める木崎
 さんの曇った表情。二月になってからこの数日、珍しくない朝であった。

  二人が更衣室へ向かうと、事務所前の廊下を三人の救急隊員が担架にガ
 ウン着込んだ入居者の女性を乗せて担当寮母と一緒に館内を出て行った。
  今朝も朝礼に、早朝勤務の職員は参加出来ない状態。旧館一階が、イン
 フルエンザの患者でほぼ全滅だった。市民病院から退院してきた居室療養
 中患者の検温や配膳と食事介助で、会議どころではなかった。
  
 「あだっちゃん、入社した頃と別人やでぇ。痩せすぎや。ちゃんと食べて
 る?」
  大食堂の賄い婦さんが、昼食で居室へ配膳したトレイを下げて来た私へ
 声を掛ける。
 「眠れてないんですよぉ……。風邪で気管支炎なってしもて」
 このところ帰宅すると疲れて、自炊も出来ていなかった。
 「休んだらどうなんや? けど……今、無理か」
 「そうなんですよ」
 それこそ高熱でぶっ倒れでもしない限り休養などは、許されない状況だっ
 た。
 「あんた、病気なるで」

  市民病院の入院患者の世話で、施設と病院を往復するスタッフ。インフ
 ルエンザに感染した職員が、十分な休養も取れずに出勤する。感染者の居
 室へ出入りした職員が、手の消毒だけで感染していない入居者の介助に当
 たる。これでは、院内感染しても当然であった。
 「なあ、……。木崎さん、なんで? 何でこれニュースにならへんの? お
 かしいんちゃうの?」
 「あだちっ、……。此処でも何処でも、そんなん言うたらアカンで。そんな
 ん言うたらな、あんた勤めてられへんようになる」
 釘を刺す彼女の低い声。何故マスコミに報道されなかったのだろうか。
  免疫力の低い高齢者達にとって施設は、生命の安全を確保出来る場所で
 なくなっていたと言ってもおかしくなかったのだ。
  
 「ミズノちゃん、元気ありませんね……」
 「まあな……。私らでもショックやからなぁ」
  旧館寮母室で朝のミーティングを終えて、ミズノちゃんが出て行くと若
 手職員らは話す。三日前、彼女が早出出勤で療養中だった岡本さんの居室
 へ朝食を配膳する為、挨拶に行くと布団の中でうつ伏せになったまま亡く
 なっていた。
  嘱託医の死亡診断書による直接の死因は、心不全だった。けれども、彼
 女も明らかに院内感染の犠牲者だったと誰も、口にはしなかった。

  入院患者や施設の居室でも、数名が亡くなった。頻繁に行われる身寄り
 の無い人達の葬儀で、組み直される集会室の祭壇。
 「なんぼ私ら忙しくても、こんな物! 立てとけへんでしょうが……」
 「そりゃそうや」
 「遺影も無しに集会室で、こんなん立ってる老人ホームて怖いわ!」
 「入居したくないよな」
 この日も手際よく祭壇を組む職員の耳に、隣のホールで午前のカリキュラ
 ムのレクリエーションを担当する若い寮母の声が聞こえていた。今日は、
 ビーチボールサッカーをしているのか、変わりない日常の様に。
 「隣の人ら、老人ホームさんとこ、また葬式してはるでぇって、思っては
 るんやろなぁ……」
 敷地から細い歩道を跨ぎ隣接する福祉施設の、スタッフさん達の事である。
 「うん。集会室丸見えやもんな」
 「スクーターのお坊さん、しょっちゅう来てるしなぁ」
 
  当時、スペシャリストでなかった私たちは天使の仮面を被る死神でもな
 く、人間であり。「寮母」とは何なのか?再び胸に問うてみる自分がいた。
 おのおの口には出来ない想いを抱える、組織の歩兵であり「痛い同士」で
 あったとも言えるだろう。

  そして私は二月下旬の深夜、日赤救急医療外来のベットに居た。
 「血が出ませんね……。ごめんなさい、こっちの腕もダメですね。血がね、
 嫌がって血管から出てこないわ。痛いけど太腿の付け根にしましょう」
 中年の看護婦さんから五本目の採血の注射針を打たれる。
  高熱と下腹部痛を訴える私へ、精密検査の為の入院が宣告された。べッ
 トの上での苦しさや不安よりも入院という医師の言葉を聞いた瞬間、私の
 背中は軽くなったのだ。





               【次回へ続く】
  

 
 


散文(批評随筆小説等) 鏡像 【改訂】 Copyright リリー 2024-03-20 12:32:57
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