漁師の家 うつくしい硝子

もうその土地は更地にして
地主さんへ返したそうですが

礼文の古い家 元は漁師の 父方の親戚の家には
ものすごく腰の曲がったおばあさんが
何年ものあいだ 一人で住んでおりました

私の母は その家の戸の硝子に惚れこみ
どうにかして戸を譲ってもらえないかと思っておりましたが
島の人たちの前では長年 良い硝子だと褒めるにとどめ
その年も欲しいとは言えないまま
私たちは 実家と呼ばれる老人の家にありがちな
幾人もの想い出から成る分厚い地層や
古びた平成に囲われたラグーンの底などを
ほんの一部ですが 数日をかけて検分いたしまして
ぜんまい式の掛け時計や大小さまざまな石ころ
着る物や鞄 細々した雑貨なんかを
おばあさんの不用な品や島の名産品と共に
海色の軽自動車へどんと積みました

それから私たちは稚内行きのフェリーにゆられ
まるまる太ったカモメにかっぱえびせんをやりながら
島のこと おばあさんのこと
持ち出せなかった昭和や食べそびれた伝統
それらに連なる 過去と未来について
春先の寝ぼけた蝶のように話しておりましたが
次におばあさんと会ったのは数年後の私たちの家でした

息子と青森へ引き上げる途中に立ち寄ってくれたそうで
これまでのこと これからのこと
限られた滞在時間に詰め込まれてゆく ありったけの言葉から
私の漁師の家はいたみも不安もなく自由であると悟りました

私の漁師の家は今日も 夏の日の中にあります
白い光 潮風 波や鳥たちの鳴き声と
それらを押しのけ走る漁師たちの小船
干場を踏みしめるジャリジャリという足音

私が漁師の家を背に利尻を眺めている隙にも
月日は熱心に硝子を磨いているのでしょう
振り返る度に硝子は輝きを増してゆきました
――ああ、ゴミ屋さんが近づいてくるのに音楽が聴こえない。

今では近づいてじっと見ることが難しいほどに光り輝く
この硝子は 田舎の民家にある戸のひとつでした


自由詩 漁師の家 うつくしい硝子 Copyright  2024-03-17 13:14:17
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