詩と詩人そして言葉
乾 加津也
個人の肌感覚を、別の個人が追体験する
現代詩が、内省パーソナルな感覚享受という新境地を獲得してから
だいぶ経つ
共に生きていた社会性から飛びだした詩は
コミュニティどのように維持するのか
それとも詩の生息域は
すでに“個と個”をつなぐ糸の
綱渡りでしかないのか
私が「太陽!」というとき
それは「私の太陽」であり
私の瞳を通り抜けて
死にゆく軌跡をたどっている
言葉の運命(さだめ)といえばそれまでだけれども
命になりたかった言葉にも
生命と同じアポトーシス(の作用)が
あるのかもしれない
永遠が鞭のように波打っていて
けたたましい
聴覚のない魂のそばで
呪いの言葉が一つ輝く
芸術家は、生み出す表現のスタイルを眺めて
おのおののジャンルの門をくぐった
人はいう「あなたは詩を書いたから、詩人だ」
詩人は、自分をその棚に並べて、得心して
レールの上で詩を書いた
最初から、詩が書きたかったわけではない
死ぬ前に、生きた意味を知りたかっただけ
喉にべったり貼りついていた言葉を
剥がしていただけ
所詮パーソナルは、パブリックにはなり得ない
領域が、壁で意味を成すように
詩は、徒党を組んで退化するしか
公共(せけん)には戻れない
ひとりになって
周りで揺れる、無数の舌の上で眠った
鱗のように固くなって
人偏だったころの夢を見ていた
言葉が命になりたいのなら
願いは、死によって遂げられる
そもそも言葉のままでいた方が、幸せだったかもしれないなど
歩きだした以上は・・・