のらねこ物語 其の十五「謎の御隠居」
リリー

 「御隠居様!若い方がお二人、お迎えでお見えになっておられますっ。」

 おりんが厨で、上部にある女中部屋へ呼びかける
 すると 床へ梯子が降りてきて
 「おや、もうそんな時間でしたかな。分かりました。
  二人に伝えてください。
  店の裏口へまわるようにとね。」

 この御隠居、昨日 
 おりんの金魚を一筆描かせて欲しいと申されて
 昼過ぎに店を訪ねて来たのだった
 小さな客間へ促すのを断り
 「良いのですよ。あなた達のお部屋でね。私がお部屋に上がったら
  梯子は、上げさせてもらいますよ。」

 土間に お見送りに来た清吉の顔を見ると
 「清吉さん、おりんさん、大切な金魚玉を譲ってくれて
  感謝にたえません。」
 深く頭を下げる御隠居 そして
 手にする一幅の掛け軸をおりんへ差し出す

 「この掛け軸は、きっと、あなた達の道を開く力になるでしょう。」

 勝手口から 若い男二人が庭へ入って来て
 「さ、御隠居、そろそろ宿へ。」
 「そうですね。待たせましたね。」
  今日はね、私の誕生日なのですよ。誕生日は最も粗末な食事で
  いいのです。この日こそ、母を最も苦しめた日なのですからね。(*)

 たくわえる白い髭へ手をやり
 そう、自らにつぶやく御隠居
 「では、皆さん失礼しますよ。助さん、格さん、参りましょう。」

 勝手口から帰って行く三人の前を 
 チャコールグレーの雄猫が一匹、横切って走り去る



 (*)=徳川光圀の名言の一つ。

 注1) 一幅(いっぷく)=掛け軸の数え方


自由詩 のらねこ物語 其の十五「謎の御隠居」 Copyright リリー 2024-02-18 09:19:16
notebook Home 戻る  過去 未来