火だるまパンツ事件。
田中宏輔


 あれは五年前、ぼくがまだ大学院の二年生のときのことでした。実験室で、クロレート電解のサンプリングをしていたときのことでした。共同実験者と二人で、三十時間の追跡実験をしておりました。途中一度でもサンプリングに失敗すれば、また最初から実験し直さなければならないはめになるのでした。目の前におります共同実験者の目の下の隈を見ますれば、けっして失敗などするわけにはまいりません。ところが、最後のサンプリングで、ピペットを使って電解溶液を採取しはじめたときに、急に便意を催したのでした。ぼくは採取した溶液を希釈して、すぐにUVスペクトルにかけなければなりません。相棒は相棒で、採取した溶液を過マンガン酸カリウム水溶液で酸化還元滴定しなければならなかったのです。ぼくのことを手助けすることなどできませんでした。スペクトルを測定している間、ぼくの身体は強烈な便意にずっと震えておりました。そうして、やっと測定し終えたときには、すこうし、汁気のものが、肛門の襞に滲み出しておりました。セルをしまうと、ぼくはすぐにトイレのなかに駆け込みました。白衣を思いっ切りまくり上げ、ズボンとパンツをいっしょくたにずり下げると、ブッ、ブッ、ブリッ、ブリッ、ブッスーン、ブスッ、ブスッと、脱糞しました。ところが、脂汗を白衣の袖で拭きふき、ほっと溜め息ををついた後、ぼくは気がついたのです。ズボンといっしょにすり下ろしていたはずのパンツが、どうしたわけか、お尻に半分引っかかっていたのです。案の定、パンツは、うんこまみれになっていました。そうして、しばらくの間、脱ぐに脱げずに困り果てていましたところ、突然、はたと思いついたのです。白衣のポケットのなかにある百円ライターを使って、パンツの横を焼き切ってはずすことを。うまい考えだと思いました。ぼくは、さっそくそれを実行に移しました。まず、左横の部分に火をつけて、うまく焼き切りました。そして、つぎに右横の部分を引っ張って左手で火をつけましたときに、突然、ガッと扉が開いたのです。とんまなことに、ぼくは、鍵をかけずに大便していたのです。相棒の叫び声にびっくりしたぼくの手元が狂って、パンツが火だるまになりました。おそらく、有機溶媒か何かが滲み込んでいたのでしょう。パンツは勢いよく燃え上がりました。相棒は、そのときのことを、翌朝一番に、研究室のみんなに話しました。それが、「火だるまパンツ事件。」の顛末です。一躍、噂の人となりました。あれから、ずいぶんと経ちますのに、研究室では、いまだに話の種になっているのだそうです。
 そして、ぼくは、いままた、パンツをすり下ろし損ねたのです。困っています。どうしようか、迷っているのです。ポケットのなかの百円ライターを使ったものかどうかを。











自由詩 火だるまパンツ事件。 Copyright 田中宏輔 2024-01-15 00:28:09
notebook Home 戻る