失われた時間
番田 

生きていることは、何かを思わされることで知るのだと思う。知っていることだけらけならば、生きていることそれ自体が面白くはないだろう。そんなことを考えていたのだ。太陽光のような、LEDの光の下で。実際、扱いづらい光だとは思っていた。蛍光灯のほうが、用途によっては良いかもしれない。つまり、OLEDというのは、目に良くないということだ。僕は新型のアイフォンを手に取る時に思う。それは非常に軽いとは思うのだが。角を曲がると秋の日が沈みかけていた。家を出るのが遅すぎた。風も冷たくなってきた。でも、僕は歩き続けた。同じ道を。箱根駅伝のランナーのような顔をして、ブックオフを目指していた。僕はイスラエルの戦争における正義を思った。親子で遊ぶ公園の景色。僕の子供の頃はそんなことはなかったけれど、今は責任放棄だと思わされるのだろう。でも、むしろ彼らのような存在は邪魔だと思っていた。幼い頃から。そして、小学五年生くらいになると、めっきり近所の友達とは遊ばなくなってしまった。だからそんな時間に親といるというのも、実はもったいない時間ではある気もする。コミュニティーのようなものがそこにはあった気がするからだ。そういう時間というのは割と短く、3年間ぐらいだっただろうか。そう思っていた。


TVをつけると、特に面白そうな番組もなく、すぐに消した。僕は本棚の古い雑誌を時々めくっている。今とは違ってロックの雑誌やファッション雑誌にはコスト度外視の服を来た人のスナップが出ていたりする。HMVのフリーマガジンを今はなんとなく読んでみたい気もする。ヒットで一攫千金を狙えた時代の息吹のようなものがあの頃はあった。僕も夢中で彼らの出す曲を視聴しに出かけていた。そして、僕はランキングボードの前にいた。自分が予想した曲が売れていると、うれしかったりしたものだった。今は、そんなことはないのだが。それは、失われた時間なのである。


散文(批評随筆小説等) 失われた時間 Copyright 番田  2023-11-20 01:34:55
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