陽の埋葬
田中宏輔

 苦悩というものについては、ぼくは、よく知っているつもりだった。しかし、じつはよく知らなかったことに気がついた。ささいなことが、すべてのはじまりであったり、すべてを終わらせるものであったりするのだ。たぶん、ぼくはいつもどこかで苦しみたいと願っていたのだろう。古い苦しみを忘れて新たな苦しみを見つけようとするところがあるのだ。愛が、ぼくのところにふたたび訪れるというのはよいことだ。たとえ、それがすぐに立ち去ってしまうものであっても。一つの微笑み。その微笑みは、ぼくの記憶の一部でしかなかった。それなのに、その微笑みは、ぼくの喜びのすべてを代表して、ぼくのこころを、その微笑みでいっぱいに満たすのだ。マコトが近づいてきた。彼もまた一つの傷であった。ぼくの傷になるであろうものであった。ぼくの横に腰をおろした。マコトは髪を少し伸ばしていた。きょうで、会うのは三度目になる。はじめて会ったのは、公園の便所の洗面台のところでだった。ラグビーをしていると言っていた。たしかに、そんな感じだった。日に焼けた顔に、きれいに生えそろった白い歯が印象的で、ボーズ頭が似合っていた。そのときは、何もなかった。マコトがトイレの中で済ませたばかりだったからだ。相手の男は、ぼくの顔をちらりと見ると、マコトを置いて、さっさと立ち去った。二度目に会ったときには、詩人がまだ生きていたときだった。ぼくは詩人と話をしていたので、マコトは、詩人とぼくの前を、ただ通り過ぎていくだけだった。マコトは、ぼくの顔を見て、「カッコええよ、宏輔さん。」と言ってきた。風はあるが、生あたたかく、つぎからつぎに汗が吹き出てくる。何度も裏返したり、表にたたみ直して使っていたので、ハンカチは汗と脂でベタベタしていた。ぼくが、ハンカチで額の汗をぬぐい取りながら、「そんなことないよ。」と言うと、マコトは、ぼくたちの前を通り過ぎていく一人の男を見て、「アウト・オブ・眼中。」と言った。ぼくのことは、と訊くと、「インサイド・範疇。」と言う。一見、ぶっきらぼうに見えるが、それは、マコトがそう見えるように振る舞っているからであろう。ありがとうという、ぼくの言葉の後に、しばしの沈黙。愛するとき、いったい、ぼくのなかのなにが、ぼくのなかのどの部分が、愛するのだろうか。ぼくは、マコトの顔といい、身体といい、その表情や、身体の線やその陰影までもつぶさに観察した。細部の観察によって、より実感を感じるというのは、精神がよく働くからであろう。思い出されるまで過去が存在しないように、観察の対象になっていないものは、少なくとも、まだ観察されていないときには、存在していなかったものなのだ。彼のまなざし、かれの唇を細部にわたって、ぼくが見つめているのは、いま彼をより強く、ぼくのなかに存在させるためだった。事物や事象がはっきりとした形をとるのは、こころのなかだけだからだ。川に映った、月の光や星の光がきれいだねって言うと、マコトは、近視だから、よけいにきれいに見える、と言った。光がにじんで見えるのだ。ふたりとも近視だった。ぼくたちは、Dについて話した。Dを服用するようになって、記憶力がどんどん増していくのだった。マコトよりも、ぼくの方が服用するのが早かったので、マコトは真剣な表情で、ぼくの話を聞いていた。熱中してしゃべっている間、鳴く虫も鳴かず、流れる水も流れなかった。ぼくの耳は、ぼくの目と同じように、マコトの息遣い一つ聞き逃すまいと注意を払っていたのだ。耳というものが注意を払ったものしか聞こえないというのは面白い。目が、目に入るものすべてを見ているのではないように、耳も聞こえるものすべてを聞いているわけではないということだ。そういえば、死んだ詩人は、こんな実験をしたことがあると言っていた。河川敷のベンチの端に横向きに坐って、目をつむり、藪のなかで鳴く虫の声と、川を流れる水の音のほうに、左右の耳を傾けて、片方ずつ、聞こえる音に意識を集中させてみたらしい。すると、虫の鳴く声に意識を集中すると、虫の声がだんだん大きくなってゆき、それにつれて、流れる水の音が徐々に小さくなり、さらに虫の鳴く声に意識を集中させると、流れる水の音はほとんど聞こえなくなってしまったという。反対に、川を流れる水の音に意識を集中させると、水の流れる音がだんだん大きくなり、それにつれて、藪のなかで鳴いている虫の声が徐々に小さくなり、さらに水の流れる音に集中させると、虫の鳴く声はほとんど聞こえなくなってしまったという。聴覚に意識が影響を与えるということだが、詩人は、この話をぼくに聞かせただけでなかった。このことは、詩人の残したメモのなかにも書かれていた。マコトは工場に勤務しているという。何を作っているのか訊いてみると、精密計測機器だという。ぼくは大学では化学系の学部で、そういった機械のことは、いくらか知っていたが、それ以上のことは訊かなかった。「宏輔さんは、数学の先生だったよね。オレは、数学なんか、ぜんぜんできひんかったし、嫌いな科目やったかな。」ぼくは、マコトの膝の上に手をおいた。マコトが、そのぼくの手の上に自分の手を重ねた。ぼくの手より分厚く大きな手だった。その手のまなざしを受けて、ぼくが唇を、マコトの唇に近づけると、マコトが目をつむった。唇が唇を求めて、はげしく絡み合った。その唇と唇のあいだで、何かが生まれた。それは愛だった。愛ではなかったとしたら、愛よりすばらしいものであった。それはこのひとときに生まれた悦びであり、後々、思い出されては胸に吊り下がるであろう悲しい悦びであった。手をふくらみの上にもってゆき、かたくなっていたのをたしかめた。マコトの手も、ぼくのかたくなったふくらみの上に置かれた。これ以上のことがしたくなったと言うマコト。ぼくが、マコトのジーンズのジッパーに手をかけると、ここでは嫌だと言う。じゃあ、ぼくの部屋にでもくるかい、と、ぼくは言った。まるで他に行くところがあってもいいかのように。
 ぼくたちは立ち上がって、川上から川下に向かって歩き出した。ふと視線を感じて振り返ると、ぼくが坐っていた場所に、死んだ詩人が坐っていた。しかし、ぼくにつられて、マコトが振り向いたときには、詩人の姿は消えていた。マコトがぼくの腕に、自分の腕を絡ませた。ぼくはマコトの手をぎゅっと握った。勃起したペニスが、歩くたびに綿パンの硬い生地にこすれて気持ちよかった。







自由詩 陽の埋葬 Copyright 田中宏輔 2023-10-23 01:00:08
notebook Home 戻る