記憶廊
妻咲邦香

椅子が「座って」と言った
椅子は昔の私だった
あの時座ってあげられなくて
ごめんねと返事して
腰を下ろした

テーブルが「果物を置いて」と言った
私は温かなストロガノフが食べたかった
食べないけれど果物を置いた
真っ赤な艶のある林檎

昨日が「振り返って」と言った
昨日の姿はどこにもない
試しに後ろを向いてはみたが
私しかいなかった

白くて小さな急須でお茶を注いだ
今度はこれになろうと心に決める
「ねえ、なってもいい?」と聞いてはみるが
「もうなってるよ」と返事が返って
そうか私は急須なんだと納得したら
途端にお腹のあたりがあったかくなった

大きな顔の私に覗かれながら
注いでみせるお茶を
得意気に
恥ずかしげに

椅子は納得も拒否さえもしなかった
ただ、気まずさだけが静かに漂い
聞こえない筈の川のせせらぐ音が
聞こえた
いったいどこの川だろう?
望郷は痛いくらいに
咽ながら



自由詩 記憶廊 Copyright 妻咲邦香 2023-10-07 17:24:33
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